功利

ご破算

 喫茶『すぷりんぐ』の中に入ると、マスターが笑顔でこちらを見て、すぐに表情を渋いものに変えた。

 いつもの席に座ると、渋い顔のままおしぼりと水を置きに来る。


「紅ヒー」

「後悔しますよ」


 本気のトーンで言うのはやめてほしい。じろりとこちらを見てから、困った顔を香澄に向けるマスター。


「あ、私はキャラメルラテお願いしまーす」

「……分かりました」


 香澄の方は何も気にしていない。首を傾げて戻っていくマスターのことを意識から追い出して、今後の方針について悩むことにする。

 灯耶の表情を見て、香澄も顔を引き締める。逃げられたから安心という話ではないと察したようだ。


「君の親父さんが悪食に食われたのは、冤罪の可能性が出てきた」

「えっ」

「佐脇って言ったっけ。彼が覚えていたってことは、誰かの作為って可能性がある」

「ぐ、偶然じゃないかな。佐脇さん、いい人だよ……」

「偶然枠は君の存在で使い切ったよ。彼がやったとまでは言わないけど、何らかの形で関わっているのは間違いない。弱み、人質、誘惑。いい人でも動かす方法はある」


 香澄の話によると、佐脇は路行浩二が研究所を立ち上げた時からの右腕だったらしい。紹介された時から最近まで、家族ぐるみで付き合っていたと。自分のことも実の娘のようにかわいがってくれた彼を疑いたくはないとも。

 佐脇がどういう経緯で香澄の父を殺す企てに加担したかは分からない。だが、香澄が父の記憶を持っていたことに焦りを見せたということは、関わっていないはずがないのだ。もしも完全な偶然であったとしたなら、路行浩二の存在が消失した時に家族に会いに行っていなくてはおかしい。そしてそこには共通の記憶を持っている香澄がいる。

 職場で最も付き合いのある人間が消失して、その人物の記憶を保持していながらも取り乱さずに現実を受け入れている。これでなお佐脇が無関係だと言い張れるほど、香澄も夢見がちではない。分かっているからこそ、灯耶と目を合わせずにいるのだ。


「お待たせしました」


 ダン、と音を立てて灯耶の前に紅ヒーが置かれる。端から見ると、香澄が灯耶から叱責されるように見えるかもしれない。香澄の前には恭しく、音も立てずに。もしかするとマスターは香澄に客以上の感情があるのではないか、と思えてくるほどの態度の差。確かに灯耶が香澄を叱責しているように見えるかもしれないが。


「どうしたいか、は改めて聞くと言ったよね。取り敢えず佐脇さんの件は保留にしておけばいい。彼は悪食使いじゃない、君の命を脅かす相手じゃないから」

「……はい」

「ま、取り敢えず飲もう。体が温まる」


 頷いて、カップに口をつける香澄。彼女が飲み干す前に、考えをまとめておかなくてはならない。

 ちびちびと変にコーヒーの苦みが強い紅ヒーを啜りながら、灯耶は視線を窓の外に向けた。弌藤の姿はまだない。


(取り敢えず、誰が計画したのかは知っておく必要がある)


 弌藤ではないだろう、と灯耶は当たりをつけていた。知っていたなら香澄を助けるわけがない。それこそ最初の面談の時に、問答無用で悪食に食わせていたはず。香澄の父が不正行為を行っていた、という調書の内容を疑っていた様子もない。

 コウダは知っていただろうかと頭の片隅をよぎったが、すぐにその考えを頭から追い出す。意味がない。

 とは言え、こうなってくると香澄の安全を確保するという約束がどこまで履行されるかが分からない。正直なところ、弌藤の職場の人間を誰一人として信用できない。弌藤も含めて。


「香澄ちゃん。一旦家に帰ったとしても、すぐにまた身を隠してもらうことになると思うんだけど、いいかな」

「え、それって灯耶さんの部屋?」

「いくつかあるうちのひとつ、だね。少なくとも佐脇さんと鉢合わせしたマンションはしばらく使えないな」


 特に、相手は公権力だ。灯耶の名前が表に出ることはないだろうが、協力者として吾妻が特定されるのはおそらく避けられない。

 弌藤の職場と敵対しない、という約束は守れそうにないなと諦める。出来るだけ短期間に無力化しなくてはならない。吾妻の元に当局の手が伸びる前に、そして灯耶の素性が明らかになる前にだ。

 香澄に悪食を宿せば当面の安全は確保できるのだが、という考えがふと浮かんで、その考えの愚かしさに灯耶は眉根を寄せた。どんな形であれ、悪食になど関わらない方がいいのだ。当然、それは自分も含む。


「これから会うのは、弌藤って男だ。おそらく君の親父さんの件とは無関係。向こうの答えを聞いて、内容次第で家に一旦戻るか、そのまま別の場所に移るかって事になる」

「私、別に帰らなくてもいいけど」

「そりゃ頼もしい。けど、向こうが受け入れたのに帰らなかったら、こっちが相手を疑ってますって教えるようなものだよ?」

「む」


 一理ある、と香澄が呟いた。

 と、店の扉がからんと音を立てた。


「まだちょっと早いんだけどなあ」


 詳しいところを詰め切れていない。灯耶の目は、店に入ってきた弌藤の姿を冷静に捉えていた。


***


「取り敢えずうちの課長からの伝言です。提案を受け入れます。ただし、逢坂香澄さんがこの件について今後一切口にしないこと、という条件で」

「ちょっと!?」

「分かった。その提案を受け入れよう」

「灯耶さん!?」


 入ってきて早々、事務的に意向を伝えてくる弌藤に、香澄が怒りを露わにする。相談せずに受け入れた灯耶にも。

 弌藤はあくまで代理人に過ぎない。彼をどやしつけても現実は変わらない。

 安堵した様子で額の汗をぬぐう弌藤。だが、灯耶の本題はここではない。


「ところで」

「!?」


 ぽつりとそんな言葉をこぼしたところで、弌藤が姿勢を正す。強い警戒感を示す彼に、ここまでで何か悪いことでもしたかなと首を傾げながら続ける。


「佐脇英介という人物を調べて欲しい」

「佐脇? 誰ですそれ」

「路行浩二さんの右腕、だそうだ」

「右腕、ですか」

「新型エネルギー研究所の次席研究員で、どうやら悪食に食われた人間の記憶を保持している」

「何ですって!?」


 弌藤が顔色を変える。関係者が二人も関わっているという事実に、彼もまた違和感を感じたのだろう。

 ここからが問題だ。弌藤がどちら側の立場で言うかによっては、灯耶は弌藤を殺さなくてはならない。


「確認は俺がした。ここに来る途中でばったり会ってな、路行浩二さんを覚えているが、家族に状況を確認した様子がない」

「確かにそれは怪しい。うちの誰かが罪状をでっち上げて、処理させた可能性がありますね」

「……話が早いな?」

「職場が嘘だらけだったので参ってるところでして。悪食使いは死なないかぎり悪食を剥がすことが出来ないっていうのはご存知で?」

「いや、知らないな。そうなのか?」


 狗藤から正式に引き継いだわけでもないので、その辺りのルールには疎い灯耶だ。聞いてみると、ジャケットの端から悪食がちょっぴり顔を見せた。特に手放すつもりはなかったので聞いていなかったのだが、悪食も少しばかりバツが悪そうだ。


『おおむねその通りだ。剥がす方法がないわけじゃないが、現実的じゃない。剥がせないと思っておいた方がいいな』

「そうか。職場にそういう奴が?」

「ええ。ついでに、そのテの不正が一番出来る立場にいます」


 つまり、上司か。

 灯耶としては生きている限り悪食を手放すつもりはないので、剥がす方法について特に聞くつもりはない。それはそれでいいのだが、最有力容疑者が弌藤の上司であるということは。


「約束については、ご破算だな」

「そうなりますね。どうされます? このまま隠れますか」

「一応、一度は家に戻ってもらおうと思っているよ」

「正気ですか? 目を離すべきではないと思いますが」

「明日の朝、家を出たところでピックアップして別の場所に隠す。その間に調べられるか?」

「……いいでしょう」


 弌藤は随分とこちら側に傾倒しているようだ。正直、こちらの頼みを受け入れてくれるとは思っていなかったのだが。

 怪訝に思ってじっと顔を見ると、照れたように笑う。


「辻崎さんは、ここまで僕に嘘をつきませんでしたから。本当は僕だって職場の仲間を信じたいですけど、嘘をつかれるのは不愉快ですよ、やっぱり」

「そっか」

「ほら、やっぱり灯耶さんは優しいですって」


 弌藤だけでなく、香澄まで。

 灯耶は思わず口許が緩むのを感じながら、弌藤の顔をじっと見つめた。


「全面的に仲間になってくれとは言わない。だけど、この件に関しては俺たちの味方だと思って構わないかな」

「もちろんです」


 頷く弌藤の目を見る限り、職場を裏切ることへの迷いは感じられなかった。

 ちょっと。いや、かなり危険だなと思う灯耶だったが、今だけは彼を信じることにする。

 弌藤もまた、灯耶には嘘をつかなかったからだ。

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