偶然は歯車を回す

 そろそろ香澄を自宅に帰さないといけない。

 灯耶が考えていたのは、当たり前のそんなことだった。

 彼女は、まだ親の庇護下にあるべき年齢だ。ただでさえ社会との繋がりが希薄な、悪食の界隈に置いておくのはあらゆる意味で良くない。


「取り敢えず、自宅に帰れるように交渉中だから」

「えー」

「えーじゃありません」


 香澄は不服そうにしているが、灯耶も譲るつもりはない。灯耶は幸運な出会いがあったからそれなりの生活が送れているが、生き方としては裏社会に生きている人間のそれに近い。悪食に関わり続けていれば、いつか灯耶と同じような生き方をすることになってしまうのは予想がつく。

 それどころか、今回のように悪食使いに狙われてしまうかもしれない。悪食使いに対抗できるのは悪食使いだけだ。人生の先輩として、灯耶は香澄を自分たちの界隈に関わらせないのが最低限の責任だと思っている。


「家に居づらいのは分からなくもない。一緒に住んでいる人を父親と思えとも言わないさ。一人暮らしが許される年齢になったら、ちゃんとした形で家を出ればいいんじゃないかな」

「……じゃあ、私がパパの敵討ちをして欲しいって言ったらここにいてもいい?」

「あのねぇ」


 弌藤を通じて香澄の安全について交渉していることは、既に香澄に伝えてある。それでもこういうことを言い出すということは、余程精神的に参っていたのだとは思うが。

 悪食によって書き替えられた現実は、身近な事柄であればあるほど覚えている側にとっては辛いものとなる。香澄は名前まで変わっているのだから、その精神的な苦痛はどれほどか。灯耶の近くに居心地の良さを感じるのは無理もない。

 それは分かるが、それでもと灯耶は香澄を突き放す。


「それは交渉の材料にして良い話じゃないよ。もし本心だったとしても、ここに置いておくつもりはない」


 そうなったら当面、吾妻辺りに預けることになるだろうか。弌藤をはじめ、彼のいる部署を根こそぎ食い散らせばなんとかなるかな、と内心で算段をつける。

 結局のところ、灯耶は弌藤のことはそれなりに信用できても、彼の部署にいる他の悪食使いについては何一つ信用などしていないのだ。少なくとも、あのコウダという男の様子を見れば、弌藤のようにスレていない悪食使いの方が稀だ。

 灯耶にとって、悪食使いとしての人生は余生に過ぎない。もしも同等の使い手と出会い、刺し違えることになったとしても、その原因が一人の少女の未来のためだと思えば、それはそれで素晴らしいことではないか。


「前にも言ったろ? 君は悪食や悪食使いに関わるべきじゃない。あまり深入りすると、悪食を宿さなきゃならなくなるか、悪食に食われてしまうかもしれない。どっちにしたって君のお母さんは君を忘れてしまうことになるんだよ」

「!」


 愕然とした顔の香澄に、ちくりと心が痛む。最も良いのは、香澄自身の記憶から路行香澄としての記憶だけをなくしてしまうことなのかもしれない。だが、こんな状況を作った悪食ですらも、そんな器用なことは出来ないのだ。

 香澄が作ったパスタを口に運びながら、灯耶は弌藤の回答が早めに出ることを願うのだった。


***


 夕方。部屋を出る時にひと悶着が起きる。

 香澄が同行したいと言い出したのだ。自分のことなのだから、自分の意見もぶつけたいと。一理あるのは確かだが、相手は悪食使いだ。最も簡単な解決方法は、有無を言わさず香澄を悪食に食わせてしまうことである。

 灯耶を敵に回すリスクをどの程度重く見ているかにもよるが、条件によって灯耶を懐柔出来ると思っているようだと危ない。

 そう説明したのだが、香澄も中々納得しない。部屋を出て、歩きながら静かに口論を続ける。エレベーターの前に来たところで、ちょうど誰かが下りてきた。


「おっと、済みません」

「いえ、大丈夫です」


 道を塞ぐ形になってしまっていたので少しずれる。相手も特に文句を言わずに灯耶の横を通り抜けようとして、


「佐脇さん?」


 香澄の声に足を止めた。


「香澄ちゃん?」

「そうです、路行香澄! 佐脇さん、ここに住んでいたんですね!」

「ああ。香澄ちゃんはどうしてここに? 友達でも住んでるの?」

「そうなんです! あ、灯耶さん。こちら、佐脇さん。パパの助手で、右腕だったんですよ」

「そうでしたか。これは奇遇ですね」

「ええ。路行さんのことは本当に、惜しい人を亡くしました」


 佐脇は静かに目を閉じ、小さく首を振った。

 灯耶はその様子に目を細めると、ごく自然に香澄の腕を取る。


「香澄ちゃん、そしたら行こうか」

「えっ?」

「ここであまり話してても仕方ない。一緒に行くことにするよ」

「本当!?」


 ぐっ、と拳を握る香澄。やはり気付いている様子はない。佐脇も不自然には思っていないようだ。

 灯耶は軽く頭を下げて、エレベーターのボタンを押す。まだ上下に動かずにいてくれた筐体に身を滑り込ませる。


「ええと、灯耶さんと言いましたか? 香澄ちゃんは一体……」

「プチ家出ですよ、プチ家出。親御さんも心配するから、そろそろ帰らないと。ね」


 二十代の灯耶と、十代の香澄。関係性が気になったのだろう。当たり障りのない答えを返し、軽く頭を下げて。

 ドアが完全に閉まったところで、ふと佐脇の表情が大きく変わったのが見えた。やはりか。

 エレベーターが下に動き出したところで、灯耶は香澄の方に向き直った。表情が険しくなっているのを自覚するが、やむを得ない。


「香澄ちゃん。ちょっと急ぐよ」

「え?」

「気づかなかったかい。佐脇って言ったっけ。あの男、君の親父さんを覚えていた」

「覚えて……? あっ!」


 一階についたところで、エレベーターから飛び出し、後ろを見る。隣のエレベーターが、下に向かって下りてきていた。


「行くよ!」

「はい!」


 走る。吾妻が管理している駐車場の、バイクの所へ。走り出した背後で、焦ったような怒声が聞こえてくる。

 悪食に食われた人間の記憶を持っている人間が、香澄の父の職場にいた。

 それを偶然と言えるほど、灯耶は世の中を楽観視してはいなかった。


***


 佐脇英介は、新型エネルギー研究所の次席研究員だった。現在は主席研究員兼所長として、そ知らぬ顔で仕事をしているが、自分がどうやってこの立場に座っているのかを、他の誰よりも理解している。

 自宅に戻ってきた彼は、焦った顔で電話をかける。相手が電話を取るまでの数コールが、ひどく永く感じられた。


『はい』

「佐脇です。お仕事中ですか」

『いや、大丈夫。何か?』

「路行所長の件です。本当に大丈夫なんですよね?」


 相手はしばらくの間、無言だった。

 佐脇の言っていることの意味を測りかねているのか、いくぶん困惑したような言葉が返ってくる。


『何を言っているんですか、佐脇所長。あなたが所長であることを、研究所の誰も疑ってはいないでしょう』

「それはもちろん! そうではなく、路行所長の娘の件です! 今日、偶然顔を合わせて! ……向こうはこちらを覚えていました」

『会った? そちらの自宅の近くですか?』

「そうです。うちのマンションで偶然。まさかこんな所にいるとは思ってなくて、声をかけられて普通に応対したんですが」

『ふむ。つまり、その少女も君と同じく『存在しないはずの人間の記憶』を持っているということですね』


 相手は余裕の態度を崩さない。佐脇の焦りが分かっているのかいないのか、どうするともどうしたいとも言ってはこない。

 佐脇の焦りがいい加減苛立ちに変わってきたところで、こちらをなだめるような口調になる。


『まあ、あまり気にする必要はないでしょう。どんなに騒いでも、おかしくなったと思われるだけです。所長もこれまで通り、粛々と研究を進めてくだされば結構』

「本当ですね? 僕はこんなところでつまずくわけにはいかないんですよ!」

『それはこちらも同じことです。では、その件については私どもが引き継ぎます。よろしいですね?』

「ええ。お願いします」


 ぷつりと、事務的に通話が切られる。

 電話を放り出し、佐脇は重苦しい息を吐いた。


「ああ、くそっ」


 何よりも欲しいものが手に入ったはずだった。しかし、手に入ったものと向き合ってみると、まざまざと現実を見せつけられるのだ。

 路行浩二は天才であり、自分は彼と比べればあくまで秀才止まりである。

 彼と語り合ったアイデアを実現することで、今はまだどうにか周囲から疑いをかけられずに済んでいる。だが、その先が自分にはまったく見えないのだ。


「何でこれが現実なんだ。悪い夢なら覚めてくれよ……早くっ!」


 両手で顔を覆えば、胸の内が言葉の形で漏れ出てくる。

 飲み屋での与太話のはずだった。

 誰も覚えていない、地元の殺人事件の話。ローカルな事件だったしと自己完結したところで、同じように覚えていると言ってきた人物に出会った。

 何となく意気投合した彼と、その後もちょくちょく飲み屋で会うようになった。

 ある日、不思議なことを言われた。


「もしも、誰からも気づかれずに人を排除する方法があるとしたら、誰か排除したいやつはいるか?」


 と。

 飲み屋の与太話だ。佐脇はけらけらと笑いながら応じた。


「ああ、うちの上司かなあ。天才ぶっているけどさ、あれくらいなら俺だって出来らぁ。世の中のためってのが口癖だけど、その前にまずは俺たちの生活だっての。いい感じに売り込めばほんと、どれだけ稼げるか」


 悪魔との取引というのは、こんな感じだろうか。

 相手はにこやかに、穏やかに、あくまで飲みの席の与太話の体で聞いてくるのだ。


「じゃあ、君がトップになれたら、こっちにもおこぼれをくれるかい?」

「おう、それくらい簡単カンタン! まあ、結局そんなうまい話なんてないんだけどねぇ!」


 乾杯、と陽気に飲み干した酒。

 そんなやり取りが、まさか現実になるとは思ってもいなかった。

 数日後、いつものように出勤したところで交わした会話に戦慄するまでは。


「おはようございます、所長」

「おはよう。朝から何を冗談言ってるんだ、君は。路行さんは?」

「みちゆき? 佐脇所長こそ何を言っているんですか。今日のご予定はプレゼンでしたよね。天下のヒシイがスポンサーになってくれれば予算増えるかなぁ……。早めに準備、お願いしますよ」


 突然、住んでいる世界が変わったような錯覚。携帯電話が鳴った。知らない番号。出ると、飲み屋で出会った男の声でたった一言。


『忘れてないよね?』


 佐脇はその日から、悪魔の指示に逆らうことの出来ない奴隷だ。

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