悪とは何か

 定時を迎えて、弐貴はいつも通り職場を後にした。

 昼食の時間に外に出るわけにいかなかったからだ。弐貴だけでなく、今日は全員が同じように中で食事を済ませている。

 鴻田と加倉の件について、それだけ全員が不安を抱いている証拠でもあった。

 弐貴自身、不安がないわけではない。そのかたちが同僚たちと違うだけで。

 辻崎という男の、下の名前も詳しい素性も、どこに住んでいるのかさえもそういえば知らない。

 一方で、弐貴の素性は知られている。辻崎がその気になれば、誰にも知られずに課の全員を皆殺しに出来るのだ。信じていなかったわけではないが、それが事実だと実際に見せつけられてしまっては気持ちが重い。

 弐貴は心のどこかで、辻崎を敵ではないと思っている。悪食使いである以上、自分たちと大切なものを共有できるはずだと。

 逢坂香澄の件で、自分たちと辻崎が明確に敵対状態に入ったと見るのが正しい。だがそれでも、彼が突然自分を殺そうとするとはどうしても思えなかった。


「よう、弌藤くん」

「つ……じさき、さん」


 何かの手がかりが見つかるかと思っただけだった。

 せめて下の名前でも知ることが出来ればと。

 喫茶『すぷりんぐ』のドアの脇に、辻崎が変わらぬ様子で立っていた。二人の人間を食い殺させたとは思えない、いつも通りの顔。

 思わず身構えた弐貴に、辻崎はへらりと気の抜けた笑顔で。


「少し話せるかい。ちょっと今は店に入るのが気まずくてさ」

「気まずい、ですか?」


 むしろ気まずいのはこちらの方なのだが。マスターを自分の悪食に食わせることを一瞬とはいえ考えていたのだ。顔を見たら絶対に思い出してしまう。

 辻崎の言葉からも表情からも、特に敵意は感じない。いつも通りの黒づくめだが、弐貴に後ろ暗いと思っている様子も、罪悪感がある様子もない。

 昨晩、鴻田と加倉を食らった悪食は辻崎のものではないのだろうか。あるいはその宿主を知っていて、自分に警告しにきたという可能性もあるのでは。

 そんなことを悩んでいる弐貴に、表情を崩しもせずに辻崎は平然と言った。


「昨日の晩のこと、ちょっと話しておきたいと思ってね」


 あまりにも平然としている。やはり辻崎ではないのか。

 もしかすると、逢坂香澄が悪食を手に入れたのか。辻崎の言う事を聞かず、暴走しているのかもしれない。

 ゆっくり頷くと、辻崎がドアから離れた。歩き出したので、その少し後ろにつく。


「コウダとカクラと言ったかな。昨日俺が殺した二人のことだ」

「!?」


 だからどうしてこう、この男は自分の思考をいとも簡単にぐちゃぐちゃにするのだろうか。


***


 思ったほど敵意は強くならなかった。それが灯耶にはちょっと意外だった。

 元々『すぷりんぐ』のマスターの命を狙おうとして、仲間の命を質に灯耶が抑えたのが弌藤だ。仲間への愛着と仲間意識は相当に強いはず。

 灯耶としては、顔を見た瞬間に襲いかかってきてもおかしくないとある程度覚悟はしていたのだ。あまりに騒がしいようなら、コウダ同様始末しようと思っていた。だが、動揺してはいても敵意はそれほど強くなっていない。

 勝てない相手だと分かっているから、気持ちを抑えているのかなと当たりをつけてみる。自分への勝ち方を本人に聞くような性格だから、どこか普通ではないのかもしれないが。


「もう分かっていると思うが、路行家の近くで俺が二人を殺した」

「別の誰かが悪食を使った、というわけではないんですね?」

「別の誰か?」

「逢坂香澄、とか」


 なるほど、弌藤はこちらが手持ちの悪食を複数持っているか探っているのかもしれない。灯耶は首を横に振った。信じるかどうかは分からないが、言うべきことは言っておかなくては。


「俺が持っている悪食はひとりだけだよ。俺は出来れば、あの子には悪食使いにならないでほしいと願っている」

「そう、ですか」

「意外かい? こんな化け物、好き好んで身に宿す馬鹿は少ない方がいいだろう」


 灯耶にとって悪食は、よく分からない怪異にすぎない。こんなものをよくも権力の側が使いたがるものだと思うが、上手にコントロールする限りにおいては有用のように見えるのだろう。

 自分の相棒にしたって、狗藤の記憶を共有できる唯一の相手でなければ最初の時に焼き捨てていた。

 灯耶の言葉が理解できなかったのか、あるいは馬鹿にされたと思ったか、弌藤の顔が険しくなる。不思議なもので、彼らは本当に自分たちが根拠もなく何かに選ばれた素晴らしい存在だと思っている節がある。

 選ばれたのは間違いないかもしれないが、それはただの化け物なのだけれど。

 取り敢えず、持って来ていた残骸を弌藤の方に放る。ばさりと落ちた毛皮の燃えカスに、弌藤は首をかしげた。


「それは?」

「コウダというやつの悪食だったもの、だな。持ち帰って上司に渡すといい」

「鴻田さんの……!?」


 悪食は、誰かに取りつく前は古びた獣の毛皮でしかない。人に取りつきさえしなければ、焼くことで殺すことが出来る。

 鑑定でもすれば、それが本人のものだったと分かるだろう。


「俺からの忠告だ。路行香澄とその家族に手を出さず、その存在については忘れろ。そうすれば俺からはそちらに敵対しないと約束する。おっと、『すぷりんぐ』の件は別件だぞ」

「それを信じろと言うのですか」

「信じなくても構わない。自分のところの人員を亡くした恨みがあるっていうなら、俺を狙うのは好きにすればいい」


 恨むのも憎むのもよく分かる。悪食使いとして、相手のそういう感情を否定してはならないというのが灯耶の持論だ。まあ、だからと言って弌藤やその仲間に負けるとはまったく思っていないが。

 香澄とその家族の平穏無事な生活を守ることが今回の主題だ。香澄自身は何もしていない。記憶があるだけで狙われるなど、許されてはいけない。

 悪食による捕食は一瞬だ。香澄を本当の意味で護るには、彼女を知る悪食使いを駆逐してしまった方が早いし確実ではある。しかし、それではやっていることがコウダと変わらない。

 弌藤は悪食の死骸を拾うと、鞄にしまった。一瞬だけ悲しそうに眉根を寄せたが、灯耶に顔を向けた時には真顔に戻っている。


「それは、僕からは即答できません。上司にあなたのことを伝えても?」

「伝えてもらわなきゃ困る。俺との関わりについては隠した方がいいかもしれない。突然現れて毛皮を投げつけられて言いたいことを言われた、とでも言えばいい」

「隠し事をしろと?」

「今更だろ?」


 コウダもカクラも灯耶を知っている様子はなかった。弌藤は隠したのだ。隠すように誘導したのは灯耶だが、ひとつ隠している以上、ふたつ隠しても大した差はない。

 変に正直に言ったところで、その言葉を信じるかどうかは別なのだから。

 こちらの用は済んだので、何か聞きたいことはあるかと水を向ける。前回は自分への勝ち方を聞いてきたが、今回もそちらを優先するだろうか。


「二人を殺したのは何故です」

「悪だと思ったからだ。他に理由がいるかい」

「悪ですって!?」


 弌藤が激高する。仲間意識はちゃんとあったらしい。

 だが、悪と断じた灯耶の判断については異を唱えられても困る。悪食とは本来、そういうものだからだ。

 昨夜の様子を説明する。コウダという男が面白半分に香澄の家の近くを通る相手を根拠もなく選別し、自身の悪食に食わせていたこと。カクラもそれを止めなかった、それどころか嬉々としてその行為に乗っかっていたこと。

 弌藤もさすがに擁護までは出来なかったようだ。憤怒を苦渋に切り替えて、それでも灯耶を睨んでくる。


「確かに悪かもしれませんが……! 何故止めるだけで済ませてくれなかったのですか! 二人にはっ」

「あの男が食わせた相手にだって、家族はいただろうさ。仲間もいただろうな、介護を必要としている誰かだっていたかもしれない。そういうことを理解した上で悪食使いをやっているんじゃねえのか、君たちは」

「それはっ、そうですが」

「コウダって男がそうだったが、君ら。自分たちがしていることについて、もしかして根拠もなく赦されるとでも思っているんじゃないか」


 反応は劇的だった。

 細かった目は見開き、瞳がふるふると震えている。何かを言おうと口を開くが、言葉としては出てこない。

 弌藤の心の、すごく柔らかい部分を突いたのだと理解する。

 これ以上追い詰める必要はないだろう。話題を変えようと思ったところで、彼が知りたかったであろうことを思いつく。


「前に聞かれたっけな。悪食の使い方。レクチャーその二といこうか」


 少しだけ、弌藤の目の焦点が合った。やはりこれに関しては関心があるのだ。


「自分の判断で、悪食を使うこと。誰かに定められた悪じゃなくて、自分の中にある悪が何かという感情に従う」

「それは」


 そうしている、と言おうとしたのだろう。だが灯耶はそうではないと知っている。

 権力の側にいる悪食使いは、そういう意味では甘えているのだ。自分以外の誰か、法律とか社会とかそういうものが、悪を与えてくれている。

 悪食にしてみれば、自分と同じく使道具だと思うわけだ。道具が道具に主従を定めるわけもなし。


「悪食は神様の遣いとか審判の獣とか、そんな上等なもんじゃない。悪だったら食っても人に討伐されないって学んで、人に交じって悪を食うようになっただけのズル賢いバケモンだ。人間の正義だの悪だのなんて、本当のところはどうでもいいのさ」

『ひでえ言われよう』

「事実だろうが」


 灯耶は弌藤に背を向けた。

 もう話すべきことは何もない。寄り添ってやる理由もないし、あとは自分で結論を出せばいい。


「じゃあな。香澄ちゃんのこと、どうするか決めたら教えてくれ。大体俺はあの店の辺りにいるから、さ」

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