自己愛

朝が来る

 翌朝。社の提案に悩みながら出勤した弐貴は、朝一で耳を疑う事実に触れた。


「鴻田さんと加倉さんが……?」


 抹消課に所属している職員は、全国から集められた悪食の影響を受けない人間だ。しかし、悪食に食われた人間は記憶だけでなく、記録も世界から消え去る。鴻田と加倉は最初からいなかったことになり、二人の席も存在しないことになる。昨日までと比較してふたつ足りない机と椅子。弐貴は持っていた鞄を取り落とした。

 やったのは辻崎だ。弐貴は直感的にそれを理解した。抹消課が逢坂香澄の自宅を監視していると踏んで、先手を打ったに違いない。何より、悪食使いである鴻田を抹消できる存在が辻崎以外に思いつかない。

 厳密には他にも心当たりはある。しかし、その人物には今すぐ鴻田と加倉を悪食に捕食させる理由がないのだ。


「弌藤くん。ちょっと」


 課長の大嶽が深刻な顔で呼んでくるのも無理はない。弐貴も頷いて、大嶽について個室に入る。会議室だ。

 さて、答え方に気をつけないといけない。不自然に感じられてもいけない。昨日の社の言葉は弐貴にとってまさに毒だったと思う。彼女は自分を怪しませることで、大嶽の疑念から外れようとしていると、今になって分かる。


「社くんは何か言っていましたか?」

「はい。気をつけると。課長の気遣いに感謝していましたよ」


 ほんの十日ほど前までは、ここでの業務に誇りさえ抱いていたはずなのに。今は、言葉に嘘を交えなくては安心できない場所になってしまっている。最初は辻崎のせいで、今は社と大嶽のせいだ。

 社は前任の山県が、大嶽に処分されたと言っていた。社は疑っていたが、弐貴だって駆け引きはする。それに、山県の処分よりも喫緊の問題がある。


「ところで課長。鴻田さんと加倉さんは……」

「ええ。大きな問題です」

「加倉さんは分かりますが、鴻田さんが何故」


 今、この場所だからこそ。このことについて、弐貴は知らん顔で大嶽に聞くことが出来る。悪食使いは悪食に食われない。課内の常識として知られている情報を覆された、それを疑問に思うことはまったく不思議ではない。

 そして大嶽の反応は、弐貴の予測を越えてはこなかった。


「分かりません。状況からみて悪食に食われたのは確かだと思いますが、悪食使いが食われる事例なんて聞いたこともなくて。いつの間にか引き継がれなかっただけで、方法があるのかもしれません。前任たちが残した資料をあたってみます」

「分かりました。逢坂家の監視はどうしましょう? 今日は僕と山野さんですけど」


 大嶽は知らないと言った。社と、大嶽。どちらかが嘘をついていると、これで確定したことになる。目の前の課長の言動に不審な点はない。嘘をついているとしたら、かなり巧い。

 弐貴はまだ社も信用してはいない。山県が生きているとしたら、社は何かの理由で大嶽と弐貴の信頼を壊そうとしたということだ。弐貴としては、社と辻崎が弐貴も知らない形で繋がっていれば、そういう行動に出る可能性はあると思っていた。

 大嶽はそれもありましたね、と深く溜息をついた。


「事情が判明するまで、監視は中止にします。悪食使いも食わせられる悪食が相手では、弌藤くんもですが社くんも危険ですから」

「ありがとうございます。資料の閲覧については、僕もお手伝いしたほうが?」

「そうですね、お願いしたいところですが」


 大嶽は弐貴の提案に頷きかけて、しかしやっぱり駄目ですねと首を横に振った。


「退職された方の個人情報もあるので、閲覧に制限がかかっているんですよ。弌藤くんはいつも通りの業務をお願いします」

「そういうことでは仕方ないですね。分かりました」


 一応、話の筋は通っている。大嶽もこちらを疑った様子はないし、取り敢えずは乗り切ったと見ていいだろうか。こうなってくると元々の態度までも作りもののように感じられて、弐貴は大嶽を信じていいものだか分からない。


「では、課の皆さんにも説明しますか。やれやれ、どうしたものだか」


 ふう、と疲れた様子で息を吐く大嶽の様子だけは、飾った様子のない本心からのもののように弐貴には見えた。


***


――灯耶くん。ごめんね。


 最後に聞いた声は、悲しみに満ちていた。


***


 がばり、と体を起こすには何度も見すぎた夢。久々にソファで寝たからだろうか、あるいは部屋に他の誰かの気配があったからだろうか。遅くねぐらに戻った灯耶は、リビングのソファで寝入った。寝室のベッドは当たり前だが香澄に譲ってある。

 狗藤朱音。灯耶の悪食の前の宿主。あまり長くない期間をともに暮らした部屋とは似ても似つかないのだが、当時は同じベッドで寝るのが気恥ずかしくてよくソファで眠っていたなと思い出す。

 体を起こすと、かけた覚えのないタオルケットがするりと落ちた。キッチンで動く気配は香澄か。


「あー」


 時計を見ると、もう昼に近い。追手がついていないのは確認していたが、随分と気持ちが緩んでいたようだ。

 漂ってくるコーヒーの香り。そういえば買い置きしておいたものの、しばらく飲んでいなかったと思い出す。灯耶はコーヒーが好きなのだが、悪食は非常に酒を好む。

 悪食が酒の匂いをさせていると、どうにもコーヒーの気分ではなくなってしまうのだ。


「おはよう、灯耶さん」

「おはよう」


 焼かれたパンとコーヒーが、目の前のテーブルに置かれる。家で人がましい食事を取るなんて、いつぶりだろうなと思いながらコーヒーを一口。


「お、美味い」

「パパが好きだったんだ。ママが淹れるの上手でね、教えてもらってたの」

「そっか」


 香澄の笑顔に、もう一口コーヒーを含む。

 父との思い出は、香澄にとって母と共有できるものではなくなってしまった。灯耶は香澄の父を知らないが、香澄がコーヒーを淹れることで思い出を共有したいと思っているのであれば、付き合ってやるのは大事だと思う。

 灯耶が悪食と、狗藤の思い出を共有しようとしたように。


「家は、どうだったの?」


 灯耶が帰った時には夜も遅く、香澄も寝てしまっていた。だからだろう、心配そうな顔でこちらを見ている。


「悪食使いがいたよ」

「!」

「ご家族ではないと思うけど、道行く人を自分の悪食に食わせていた。同僚らしいのもいたね。両方とも、俺が悪食に食わせた」


 悪食が食った人間は、存在しなかったことになる。存在しない人間を殺したことは立証できないから、おそらく罪に問われない。コウダとカクラという二人は、明らかに自分たちの行為に酔っていた。

 自分たちが正しいと、根拠もなく思い込む者たちほど度し難いものはないと灯耶は思っている。

 悪食を使うのに、思想的な資格は必要ない。悪食による記憶と記録の消去に影響されないことが必要なだけだ。だが、どうやら権力の側で悪食を運用している者は、悪食に認められていないようだ。


「香澄ちゃん。俺の方も今回、連中と因縁が出来た。もう一度聞くけど、君はどうしたい?」

「どうしたいか……って。悪食を使わせてもらうかどうか、ってこと?」

「悪食に関しては俺はあまりお勧めしないよ。俺の生活を見てても、大変だってのは分かるだろ?」


 その言葉には、香澄も素直に頷いた。野際の件で、灯耶の稼ぎが安定しないことは理解している。香澄は資質を持っている側だから分からないだろうが、実際には他にも問題がある。


「それに、悪食を宿すっていうのは言うほどいいことじゃない。悪食に食われた人が世間から忘れられるように、悪食使いも存在が薄くなるんだ」


 やはりピンとこないようだ。

 灯耶は自分が人間社会から外れたことを、悪食を背負ってすぐよりも、こちらのデメリットを実感してから強く感じたものだ。


「悪食使いは、資格のない人からはとても忘れられやすいんだ。それこそ、毎回初対面扱いだよ」


 記録からは抹消されないだけ、良い方だろう。

 香澄はそれでもよく分からなかったようだが、灯耶の言葉に顔をひきつらせた。


「君が悪食を背負うと、君のお母さんは旦那さんのことも、君のことも忘れてしまうことになる。お母さんの自覚がないところで、ね」

「!」

「食われた場合と違って完全に消えるわけじゃないから、顔を合わせるたびに思い出す。そして忘れていたことに罪悪感を感じた顔をするけど、君がいなくなるとまた忘れてしまう」


 悪食を背負ってから一度だけ、実家に顔を出したことがある。自分の顔を見て驚いた様子の両親と、弟。取り繕うようなあの笑顔は、二度も見たいとは思わなかった。


「俺としては、君のお母さんから二人も家族を奪うようなことはしたくないかな。だからあまりお勧めはしない」


 そして、そんな思いをさせたいとも思わない。

 灯耶はさくりとパンを齧った。マーガリンの香りが鼻に抜けて、とても美味しい。


「君の敵は、俺が全員やっつけるよ。君は悪食なんて背負わないほうがいいと俺は思う」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る