疑い

 時間は少し前後する。

 逢坂家の監視が業務に入ることになり、弐貴は陰鬱な気分になっていた。

 徐々に辻崎に近づいてしまっている実感があるからだ。あの男に勝てるビジョンが見えないうちに、課の仲間たちと会わせるわけにはいかない。

 とはいえ、正式な方針として発表された以上は監視するのは決定だ。逢坂香澄が現れたら確保しなくてはならないが、そうなった場合おそらく辻崎は完全に敵になる。

 弐貴は自分が感じているこの寒気が、仲間が辻崎に食い散らされるかもしれない不安からなのか、辻崎を敵に回す恐怖からなのか分からなかった。

 と、席を外していた大嶽が戻ってくる。表情が暗い。鴻田が声をかけた。


「課長、どうでした」

「かなりまずい事態になっているね」


 鴻田の問いに答えて、大嶽が重く息を吐いた。

 説明の前の心の準備だろうか。表情を一層引き締めたから、内容が重いのは予測できたが。


「警察で悪食の運用を主張していた敷島さん。いないことになっていた」

「?」

「言葉通りの意味だ。存在しないことになっている。周囲もそれに気づいていない。間違いなく悪食に食われている」


 ざわり、と空気が揺れた。

 悪食の有用な点は、食われた人物の記憶や記録が消える点だ。これは催眠などとは格が違い、素養のない人間が思い出すことは絶対にない。

 弐貴が抹消課に配属されることになった原因も、悪食が処理して記録が消えた事件を覚えていたからだ。悪食の存在を知り、その運用を任された時の高揚は今も忘れられない。

 だが、それが敵に回る。そう考えただけで恐ろしくてたまらない。しかもその相手は底知れないあの辻崎なのだ。


「それだけじゃない。その時に敷島さんが後ろ盾にしていた先生もだ。迂闊だった、いなくなったことに私自身も気づかなかった」


 議員の数は多いし、それなりの頻度で入れ替わる。落選してしまえば一般人になるので、いつの間にか落選でもしたのだろうと思い込んでしまう。

 大嶽もその感覚でいたようだ。記録も記憶も消えているから、その線からはもう関係者を探し出せないだろう。


「悪食使いが敵に回るというのは、こんなに怖いんですね」

「怖い? おいおい弌藤、気弱が過ぎないか」


 思わず出た言葉に、鴻田が噛みついてくる。底抜けに明るい彼は、自分たちが負けることはないと信じているのだろう。そんな鴻田を、大嶽が叱責する。


「鴻田くん。弌藤くんの考えは正しい。私も怖いですよ、相手が」

「課長まで!」

「私が覚えている範囲で、敷島さんと協力していたはずの人物は誰も確認できませんでした。一網打尽にされています」

「はァ!?」


 大嶽の言葉に、辻崎が追われる危険性をまったく感じていない様子だった理由が、ようやく分かった。自分を知る者を全員悪食に食わせたのだ。

 恐ろしいというより、おぞましいと思う。それだけの命を奪っておいて、平然としていられるところが特に。

 あの得体の知れなさが、何となく明確な輪郭を持ったような気がした。


「弌藤くん」

「はい」

「社くんに事情を説明してきてください。路行浩二の処分は彼女がしましたからね、逢坂香澄の協力者が狙わないとも限らない」

「分かりました」


 頷く。辻崎も逢坂も、どの悪食使いが路行浩二を喰ったかは知らない様子だった。もしも辻崎が社の元に現れることがあれば、彼の情報源は自分だけではないことになる。

 大嶽は最初の監視に鴻田と加倉を選抜した。逢坂の顔を覚えているのは加倉と弐貴だけだからだろう。


「現れますかね?」

「あまり期待はしていません。警察の悪食を奪った人間が逢坂香澄を支援しているのだとすれば、相当に危険です。間違いなくこちらの動きを読むでしょう。ですが、支援者が別人であれば、あるいはそこまで気が回らないかもしれません」


 世の中に悪食がどれだけいるかも分かりませんし、と軽く笑う大嶽。

 確かに、悪食の生態は謎が多い。そもそもどうやって繁殖するのかも分かってはいないのだ。かつて抹消課を作った人たちは、どこから悪食を調達したのか。


「では?」

「確認ですよ。現れたなら鴻田くん、躊躇しなくて良い。逢坂香澄を悪食に食わせてください」

「説得はしませんか」

「しません。路行浩二を処分したのは我々です。何を条件にしても我々に協力するとは思えませんから」


 冷徹な大嶽の言葉に、鴻田が満面の笑みを浮かべた。

 前は頼もしく思っていた大嶽の冷たさも、鴻田の明るさも。今の弐貴には不思議と気味の悪いものに感じられるのだった。


***


 社美咲は、課内では二番手の悪食使いだ。大嶽課長から悪食を引き継いで悪食使いとなった彼女は、弐貴のすぐ上の直属の先輩だと言える。課内では鴻田が一番手、弐貴は三番手である。


「山県さん、元気かな」


 退職して農家をやる、と言っていた先輩を思い出す。送別会の後、田舎に帰ったという彼とは会っていない。山県が運用していた悪食を、送別会の少し後に引き継いだのが弐貴だ。

 大嶽、山県、鴻田の三人で動いていたころの抹消課はどんな組織だったのだろう。

彼らの頃よりも質が落ちたとは言われたくないものだ。

 そんなことを考えている間に、社が住んでいるマンションに到着する。

 建築年数のせいか、セキュリティが甘いマンションをすたすたと進む。インターホンを押すと、少ししてドアがわずかに開いた。中から顔を出した人物と目が合い、互いにしばし硬直する。おそらく互いに違う理由で。


「弌藤くん……!」

「ど、どうしました社さん。そんなにやつれて!」

「と、取り敢えず入って」


 社が有休をとってから、日数はそれほど経っていない。それでも、見た目の印象さえ変わるほどにやつれて見える。食事もそうだが、眠れていないのだろう。目の下の隈が痛々しい。

 社は何かを警戒している様子だった。弐貴が部屋に入った途端、鍵とチェーンをしっかりとかけている。辻崎の件が伝わっていたのだろうかと首を傾げる。


「ごめんね、ちょっと参ってる」

「それは見たら分かりますけど。路行浩二の件ですか?」

「路行? やっぱり何かあったの?」

「やっぱりって……どういうことです?」


 何だか会話が噛み合わない。

 分厚いカーテンを開けることもなく、部屋の明かりも最低限。自分を狙っている誰かから身を護る動きのようにしか見えないのだが。

 首を傾げる弐貴に、社は溜息をつきながらベッドに腰かけた。座ればと言われたので、弐貴も手近なクッションに腰を下ろす。

 しばらく黙っていた社だったが、ぽつりと呟くように言った。


「……私はいま、抹消課を信用できなくなってる」

「えっ」


 何を言い出すのか。

 休み前までの彼女が持っていた凛とした雰囲気が、見る影もない。


「何か、あったんですか」

「……言えない」

「言えない?」

「私はまだ、命が惜しい」


 彼女の睡眠不足は、自分がいつ消されるか分からないという恐怖から来ているのだろう。有休を消化していたこの数日、彼女はどんな思いで過ごしていたのか。

 弐貴は、社の抱いた感覚を冗談だとは笑えなかった。社もまた、弐貴のそんな気持ちを見抜いていたから部屋に上げたのかもしれない。


「知るべきではないことを知っちゃった。確認したら、事実だった。ボロを出したら私も殺される。あんたも知るべきじゃない」

「で、ですけど」

「あんたは、立ち向かってしまうでしょ。私は無理。怖いけど、立ち向かえないから怯えながら働くしかない」


 社が無意識にだろうか、爪を噛んだ。

 弐貴は、自分が感じているもやもやとした感情を言葉にするべきか迷っていた。

 口にしてしまえば、きっともう後戻りは出来ないのだと分かっているから。

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