捕食

 少しだけ時間を置いて、灯耶は部屋を出た。逃げた野際が追われているなどと勘違いしないようにという配慮だ。鍵はかけず、そのまま下へと降りる。

 香澄は困惑した顔でついてきていたが、我慢できなくなったのだろう、灯耶の袖を結構な力で引いた。


「あの。放っておいていいんですか?」

「何が?」

「さっきの人です。それのこと、言いふらされたら困るんじゃないですか?」

「ま、それならそれで構わないさ。理由についてはすぐに分かるよ」


 悪食まわりの現象というのは、あれこれ説明するより実感した方が早い。

 懐にしまった封筒を取り出し、香澄に預ける。


「え、これってさっき預かった封筒じゃ」

「持っててくれ。そしたら分かるよ」


 私が持ち逃げしたらどうするつもりなのよ、などとぶつくさ呟いていた香澄だったが、色々飲み込んだ顔で封筒を自分の鞄に入れる。

 灯耶が向かっていたのは、近くの月極駐車場だ。

 香澄に灯耶を紹介した女性――吾妻の所有している駐車場であり、そこの右手最奥に停めてあるバイクは灯耶のために常にメンテナンスされている。

 後部座席に座った香澄が、意外そうな顔で言った。


「免許あるんですね?」

「悪食に関わる前に取ったんだ」


 悪食使いは悪食の弊害で周囲から忘れられやすくなるが、記録などまで削り取られるわけではない。免許の更新については、あまり心配していなかった。

 ヘルメットをかぶり、エンジンをかける。普段は一人で乗るので、慣れるまではゆっくりと。


「吾妻さんが色々と便宜を図ってくれていてね」

「吾妻さんが?」

「あの人、元は資産家の後妻だったんだよ」


 旦那は中々の篤志家だったのだが、些細な恨みから殺害された。犯人を追っていた灯耶が悪食に捕食させたのだが、吾妻は夫の死も犯人の存在も覚えていた。

 吾妻は親子ほども年の離れた夫を随分と慕っていたようで、犯人を自分の手で殺せなかったことだけが心残りだと灯耶に告げた。一方で自分が犯罪者にならなかったことへの感謝と、自分のような思いをする者が減るようにと、社会的な生活が困難な灯耶へ様々な支援をしてくれるようになったのだ。

 先程のビルも、駐車場も、バイクも。吾妻が灯耶の活動のために用立てたものだ。


「忘れられやすいってのは結構困ったものでね。まず人らしい仕事が出来ない。悪食を背負ったことに後悔はないんだが、人間を辞めたわけじゃないから金がないと生活が出来ない」


 こればかりは、悪食にはよくわからない人間の事情というやつだ。悪食からは守銭奴扱いされるが、香澄はなるほどと深く頷いてくれた。


「吾妻さんのおかげで、ある程度動きやすくなったっていうのはある。今回も自前の足がなけりゃ、間に合わなかったかもしれない」

「間に合わない?」

「野際さんところのお嬢さんが殺されてしまうかもしれないってことさ」


 徒歩か電車という選択肢になる。便利ではあるが、行き先の自由度が少ないからこういった場合の移動には不向きだ。

 もちろん、車やバイクでも渋滞というリスクはある。急いでいる場合、そういったリスクを避けやすいのはバイクの方なので、今回はそちらで向かっている。

 香澄がひぇ、と声を上げた。掴んでいた悪食が動いたのだろう。


『左だ、灯耶』

「おう」


 悪食が辿っているのは、匂いではなく悪の気配だ。

 野際の娘の周囲に存在する悪の気配を探り当て、そこへの道を示している。それは形はどうあれ『縁』と呼ぶべきもので、何もかもを貪り食らう悪食にとっては食糧の一部なのだろう。


「あの、辻崎さん」

「なんだい」

「……いえ、何でも」

「そうかい」


 何となく、香澄が何を言おうとしていたのかを察したが、灯耶はそれを聞き出すつもりはなかった。それもまた、悪食を宿す前の自分と同じ感情だろうと思ったからである。


***


 誘拐犯の定番とでも言うべきか、悪食の案内でやってきたのは潰れた工場の前だった。

 少し離れた場所でバイクを下りて、ばれないように徒歩で近づく。監視がないかを確認して、無言で割れた窓から中を見る。

 すすり泣く声と、何かを叩くような音。見るまでもなく、クズだ。

 立っているのは二人だが動きはない。泣き声の主と、叩いているのとは別だ。

 最低三人はいる。

 どうするのかと服を強く引いてくる香澄に、ついて来いと指示を出す。


「何を見ても、俺の前には出ないようにね」


 四人目以降がいないとも限らない。ここに置いていくわけにはいかなかった。

 青い顔で頷く香澄を連れて、自然な動作で中に踏み込む。


「はろー」

「なッ⁉ ……んだ、お前」


 身構えた三人が、困惑を顔に乗せて灯耶を見た。どう見ても警察の類には見えないし、女子高生を連れている。かけられた声も、気の抜けたものだ。それは困惑するだろう。


「あんたらもここをよく使うのかい?」

「あんたらも……って、何だ、あんたも似たようなクチかい」

「まあね。そっちは随分ちっちゃい子だな。しかもそりゃあちょっとやり過ぎじゃねえの?」


 泣き疲れた様子の少女の顔は、ひどく腫れている。家族に向けて哀れを誘う声を出させようという意図で痛めつけたのだろうが、その根底には壊れてしまっても別に構わないという悪意がある。

 身代金を手にしても、この分では無事に帰すつもりはないとみえる。

 こちらを同様の下種と見たか、立っていたうちの一人が下卑た笑い声を上げた。


「まあまあ。悪いんだけどよ、今日は俺らに譲っちゃくれねえか兄さん。それともどうだ、一枚噛むか?」

「噛むって言ってもよ。俺はここに居合わせただけだぜ」

「そっちの嬢ちゃん、なかなかイケてんじゃん。ちょっと貸してくれればいいよ。もうすぐこっちは大金持ちだからさ、楽しませてくれた余禄ってことで、どう?」

「そいつは中々――」


 灯耶もまた、極力下卑た笑みを作って、近づく。

 同意を得たと思ったか、にたにたと笑いながら近づいてくる男二人がすぐ近くまで来たところで、悪食を解き放つ。


「――良くねえ、話だ」

「何をぅッ⁉」

「ぐぶぇっ!?」


 悪食は獰猛に、二人の上半身を軽々と食い千切った。返す牙で残った部位もずるりと飲み込み、ごくんと飲み干す。

 少女に馬乗りになっていた男が、異変に気付いて体を起こす。きょろきょろと周囲を見て、いなくなった二人の名を呼んだ。


「伊駒!? 古島!?」

「残念、二人はもういねえよ」


 灯耶は混乱しているままの、名も知らぬ男に駆け寄って胸倉を掴む。

 反射的に灯耶の腕を掴んだその手が、悪食にがぶりと食いつかれる。


「痛ぇ!? な、何だこりゃあ!」

「ここからはもっと痛ぇぞ」

「ひぃっ!? ま、まさか……黒いバケモノ!?」

「正解。貪れ、悪食!」

『了解だっ!』


 灯耶の上着に擬態していた悪食が、その体を膨れ上がらせながら男にのしかかる。手を放すと、男は悪食ごと横倒しに倒れた。

 悲鳴もそこそこに、悪食は男を飲み込んだ。少女の心にどんなトラウマも残してはならないという配慮だろう。灯耶も同感だ。

 音はないが、あきらかに何かを削り取っている気配。廃工場の中だと、金属を削る機械がフル稼働しているような錯覚を覚える。

 灯耶は少女をそっと抱き上げた。痛みと泣き疲れで朦朧としている少女の呼吸が、ゆっくりと寝息に変わっていく。


「辻崎さん? こ、これって……!」

「誘拐犯の三人がからな。このお嬢が傷つけられた事実も消えた。そういうわけさ」


 抱き上げる前は、赤く腫れあがっていた顔。香澄の所まで歩いた時には、怪我一つない綺麗な顔に戻っていた。

 怪我が巻き戻る様子を目の当たりにしたのだろう、香澄が目を見開いて絶句している。


「悪食が食ったものは、世界から削り取られる。それは記憶であったり、記録であったりするんだけどね。世界はその削れた穴をどうにか取り繕おうと、そこそこ強引に辻褄を合わせにかかるんだ」

「!」


 灯耶の言葉に、香澄が口許を抑えた。自分の身の回りに起きた異変と、悪食の捕食とが繋がったらしい。


「時々、君みたいに削り取られたはずのものを覚えている人がいる。そういう人は、悪食の宿主になる資質があるのさ」


 香澄の目から、静かに涙が溢れる。父親が死んだと、悪食に食われたのだと、本当の意味で理解したのだ。

 灯耶は香澄が泣き止むまで、静かに佇んでいた。

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