遭遇
弐貴が陰鬱な気持ちで職場に顔を出すようになって、十日ほどが過ぎている。
辻崎という男に出会ったからだ。職場の仲間に隠し事をしていることや、自分たちより明らかに悪食を扱うのに長けている男の存在。
悪食は悪食使いを食うことが出来ない。だからこそ、悪食使いは法令を遵守し、自らが悪にならないことを誓約する。それが抹消課の悪食使いの誇りであり、弐貴もまたその誇りに背かずに生きてきた。
辻崎は悪食使いを削り殺すことが出来ると言った。弐貴の常識では、出来るはずのないことだ。ブラフだと断じて、上に報告してしまえば良い。辻崎は抹消課の悪食使いを捕食出来ずに捕らえられ、適切な処分を受けるはずだ。簡単なことだと、何度も自分に言い聞かせている。だが。
「……無理だ」
天井を見上げ、何度めかの諦めを口にする。
人の言葉を話す悪食。少なくとも警察組織の悪食を宿しておきながら、何事もないかのように生活している。何より、あの威圧。自分の悪食が恐慌を起こして使い物にならなくなった。
ブラフだと断じるのは無理だ、誰よりも自分があれに勝てないと思ってしまった。悪食の性能の差、ではないと思う。それ以外の何か。そもそも悪食が人の言葉を話すなんてあの日まで自分は知らなかったのだ。
課の仲間や、上司は知っているのだろうか。
聞こうかと思いつつ、その決断が出来ない。不用意に聞いてしまえば、辻崎のことを隠しておける自信はなかった。
それが自分の心に芽生えた抹消課への疑問からではなく、辻崎を追えば仲間たちが皆殺しにされてしまうからだと、自分の中の何かに言い訳をしながら。
「よ、弌藤。どうした」
「えっ、先輩? どうしたって……何がです」
「そんな辛気臭い顔をしてたら、嫌でも気づくさ。悩み事か?」
同じ悪食使いの
自分もまたこんな笑顔を浮かべていたのかと思うと、喉の奥に嫌な苦みが上がってくる。
咳払いをひとつして、出来るだけ満面に笑みを浮かべる。
「ああ、いえ。こないだいい喫茶店、見つけたって言ったでしょ?」
「ん? おお、そういえばそんな話を聞いたな。それが?」
「結構親しく話をしたつもりだったんですけどね。そこの可愛い従業員の子に初めましてって言われちゃいまして」
「……あー、分かるわぁ、それ」
嘘をついた。明確にだ。ばれやしないかと心臓が脈打つ。しばらくの沈黙。
唐突に鴻田が表情を欠落させた。仮面を付け替えるように、意気消沈の表情を作る。この男の感情は、こんなに無機質な変化を見せていただろうか。
聞き耳を立てていたのだろう、周囲の同僚たちも会話に入ってくる。
「結構傷つくよな、あれ」
「ちょっといいなって思っている子に限って言ってくるのよね。狙ってるんじゃないかってくらい」
ここで運用されている悪食は三体だが、弐貴をはじめとした同課の悪食使いに引きずられるのか、同僚たちも非常に忘れられやすいという。
向けられる笑みは、どれも無機質に見えて。
「ま、もう昼だ。美味いもんでも食って気持ちを切り替えてこいよ」
「はい。心配かけてすいませんでした」
鴻田が軽く背中を叩いて、そんな言葉をかけてくれる。
落ち着け。同僚も先輩もみな親切で言ってくれているのだ。辻崎という男の毒に当てられて、正常な判断が出来なくなっているだけではないか。そう思ってしまえば、何だか気が楽になってきた。
戻って来たら上司に相談しよう。大丈夫、きっと全部上手くいく。
今は皆の厚意に甘えることにして、弐貴は笑顔で席を立つ。自分の浮かべた笑顔に対しての、違和感も綺麗に消えていた。
***
「やっと出てきたか」
「……何でいるんですか」
人生で最もきつい苦みを味わっているような顔で、弌藤が灯耶を見た。
弌藤の職場から出てすぐ。上機嫌がどん底に急降下する様子は、見ていて少しだけ面白かった。
「そりゃあ、用が出来たからさ。別に返事を聞きに来たわけじゃない」
「準備が出来たら会いに来いとか言っていたじゃないですか。何なんですあの格好つけ」
「うるさいな」
ちょっぴり痛い所を突かれて、灯耶も渋い顔をする。
そうは言っても、急ぐ話題だ。気まずさに蓋をして、用件に入る。
「路行浩二という男を知っているか」
「路行……?」
予想外のことを聞かれた、という表情で弌藤が呟く。
しばらく記憶をさらっていたようだが、心当たりがあったのだろう。目を細めて聞いてくる。
「何故その男を?」
「聞いてるのはこっちだ。悪食が動いたことは把握している。あんたの悪食が食ったのか?」
「いや、僕ではありませんが……。というより、答えられませんよ。一応守秘義務ってものがですね」
「既にこの世から削り取られた人間の情報を、か?」
「そうだとしても。課内のことは当たり前ですが秘匿事項ですよ」
ガードが堅い。分かっていたことだから、灯耶としても落胆はない。
だが一方で、弌藤も事情次第だと言外に匂わせている。そうでなければ、灯耶との会話を打ち切って早々に立ち去っているはずだ。
「情報交換といこう。情報の確度次第で、あんたの質問に答えてやるよ」
「……それは、あなたへの勝ち方でも?」
「別に構わないよ」
知ることと、それを実行することの間には大きな隔たりがある。
灯耶は先に自分のカードを切ることにした。
「ま、知られて困ることでもないから先に教えておこう。悪食運用のルール、そのいち。悪食と会話出来ていないのは、悪食に認められていないということ」
「認められていない? 事実として、僕の悪食は僕の指示で」
「そりゃ、悪食にとっては食事だからな。指示に従っていれば悪を食えるからと言って、指示を出しているやつを自分の相棒と認めるかどうかは別の問題だろ」
「なら、どうすれば認められるというのですか!」
強い口調で詰め寄ってくる弌藤。食いついた。
灯耶は笑みを浮かべると、左の掌を弌藤に差し向けた。
「これ以上は情報次第。さあ、どうする?」
「うぐっ」
葛藤が分かりやすく顔に浮かんでいる。
だが、灯耶は既に勝ちを確信していた。場所を変えるか? と聞けば、弌藤はがっくりと肩を落として頷いた。
***
「路行浩二は確かにうちの同僚が悪食で処分したはずです」
「あんたじゃないのか」
「ええ」
昼間の市民公園は、場所を選べば不思議と人が少ない。
辻崎に案内された無人の公園で、弐貴は情報を吐き出していた。辻崎は敵ではあるが、こういうことで嘘をついているとはまったく思わなかった。
「罪状は?」
「新しいエネルギー技術の開発関係で不正が発覚したと聞いています。かなり確度の高い情報がもたらされ、間違いないと」
「そうか。悪食に食わせるほどの悪事だとは思えないが……」
「そう、ですか?」
辻崎の疑問に、弐貴は首を傾げた。彼は何を言っているのだろう。食うべき悪だと判断されたからこそ、抹消課に路行浩二は連行されたのだ。
弐貴には理解出来なかったが、辻崎は納得したようなしてないような顔でしばらく黙り込んでいた。
微妙な沈黙を破ったのは辻崎だった。何度か首を振って、頷いて。弐貴に素直に礼を言ってくる。
「ありがとよ。大体分かった」
「そうですか。それで、悪食に認められる方法ですが」
「今のあんたじゃ、無理だろうな」
「はァ!?」
ここで梯子を外すのかと、思わず声を荒らげる弐貴だったが、続く辻崎の言葉に怒りを続けられなくなる。
「俺が今の話に何故疑問を持ったのか、分かってないだろ?」
「それは、そうです、けど」
「分かるようになったら、あんたの悪食もちょっとは認めてくれるかもな」
辻崎の言っていることは、やはりよく分からなかった。
もう少し詳しく聞きたかったが、それよりも辻崎が話を続ける方が早かった。
「ついでに、頼みがあるんだが」
「はあ」
「近いうちに、逢坂香澄って女の子があんたの職場を訪ねるかもしれない」
「何でまた」
図々しい話だが、取り敢えず拒否はせずに最後まで聞くことにする。
路行浩二の件といい、辻崎の話は本当に唐突だ。
「路行浩二に会わせろってな」
「はあ?」
「もし来たら、どうにか上手いこと俺のところに連れて来て欲しい」
「何故です。そもそも、何でそんな話に」
「娘だからだよ。路行浩二の」
「ま、まさか――」
「少し前まで、路行香澄って名前だったそうだ」
そして。辻崎の言葉はどうしてこう、弐貴の頭をぐちゃぐちゃにしていくのだろうか。
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