覚えている少女
記憶
悪食が捕食した人間の記憶を残している人の数は、数万人に一人程度の割合ではないかというのが悪食使いの定説、らしい。
灯耶がそれを聞いたのは、灯耶の前に悪食を宿していた人からだ。悪食の影響を受けない人間は、悪食使いとなる唯一無二の資質であるという。
人は忘れる生き物だし、悪食と関わらないままに一生を過ごす者も少なくない。数万人という数がどの程度の精度であるかは、結局のところ悪食使いにも分からない。
「お願いします。父がどうなったか、調べて欲しいんです」
東京の人口は一千万人を優に超える。悪食の捕食の影響をうけないのが五万人に一人としても、二百人以上はいることになる。
決して多くはないが、少ないとも言い切れない。
灯耶は『すぷりんぐ』のいつもの席で、表現しにくい表情をしていると自覚していた。その原因は目の前で自分に頭を下げている少女。
悪食の被害者の娘が、悪食の影響を受けない人間だった。灯耶もこれには頭を抱えざるを得ない。
「最初から説明してもらえますか?」
「はい……」
香澄の父は、十日ほど前に唐突に逮捕された。名前は路行浩二。逮捕に至った容疑は何かの不正を働いたということらしい。父が犯罪に関わっていたとは思えなかったから、すぐに帰ってくると思っていた。
奇妙なことは、三日後に起きたという。朝起きたら、見知らぬ男が何食わぬ顔で食事をしていたのだ。父の逮捕でふさぎ込んでいた母も、先日までの不調が嘘のように明るくなっている。何事かと混乱する香澄の前で、母は見知らぬ男を笑顔であなたと呼んだ――
「頭がおかしくなったかと思いました。家の表札も、手元にある名札も逢坂に変わっていて。私、誰に聞いても逢坂香澄なんですって」
悪食の捕食による、現実の書き換えだと察する。香澄という娘が生まれているからには、路行浩二という人間の記録の残滓はわずかに残されている。今の父は実の父ではなく、再婚ということになっているのだろう。
いつ聞いても強引なつじつま合わせだが、その渦中にいる人物が記憶を失っていないとなると大問題だ。周囲は記憶を失っているのだから、当然香澄がおかしくなったと考えるだろう。
「母も、その男も。私が変だって言うんです。父は、路行浩二は私の記憶にはっきりと残っているのに」
「なるほど」
「途中から、自分の方が変なのかなって思うようになって。だって、学校でも私のあだ名がオーサーになってるんですよ? 私の記憶ではミッチーだったのに」
顔を覆う香澄に、灯耶はふと家族のことを思い出す。両親と、弟。悪食と関わったことで、おそらく灯耶の顔でも見ないかぎり自分のことを思い出すことはない。悪食を身に宿したことを後悔したことはないが、それはあくまで自分が当事者だったからだ。
香澄はわらにもすがる思いで、ネットワークで色々と調べたようだ。それで偶然つながった人物が、灯耶を紹介してくれたのだという。心当たりはある。灯耶に復讐を依頼して、やはり香澄と同様にその記憶を失わなかった女性。それ以降は顔を合わせていないが、時折こうやって客を紹介してくる。
「分かりました。それでは調べてみましょう」
「し、信じてくれるんですか?」
ほぼ確実なこととして、路行浩二は悪食に捕食された。世の中の記憶が書き換えられたことに混乱したとしても、悪食の存在を正直に伝えて香澄が納得するとは思えない。
どうしたものか。
「同じような経験をしたことがあるんですよ」
「本当ですか!?」
「ええ。友人の兄貴がね、ある日突然いなかったことになって」
「わ、私だけじゃなかったんですね」
無意識にだろう、ぽろぽろと涙を流す香澄。おそらく自分の正気さえも疑い始めていたのだろう。安心して気持ちが高ぶってしまっても無理はない。
まるきり嘘というわけでもない。自分が悪食を宿す前、ただの学生だった頃にあった出来事だ。それがきっかけで悪食やその使い手と関わり、今ではいっぱしの野良悪食使い。世の中というのは不思議なものだ。
「ひとつ、はっきりさせておきたいんですが」
「はい、なんでしょう」
「原因を見つけたとして。普通には信じられないような、荒唐無稽な話になるかもしれません。それでも納得していただけますか?」
灯耶の問いに、香澄は少しだけ考えるそぶりを見せた。
テーブルの上に置かれた紅ヒーを一口飲み、彼女の答えを待つ。
しばらくして、香澄はこちらの目をじっと見てしっかりと答えた。
「すでに十分、訳の分からない事態に巻き込まれているから。それがどんなに嘘みたいなことでも、信じるって約束します」
「そうですか」
こんな事例に遭遇したことがない以上、正解なんてないようなものだ。
灯耶は意を決して、その言葉を信じてみることにした。
「世の中には色々と不思議なものが存在します。その中に悪食という怪物がいましてね――」
***
だが、世の中というのはそう上手くいくはずもない。
「私っ! 私が子供だからって、馬鹿にしているんですか!?」
「落ち着いて、路行さん」
やはり信じてはもらえなかったようだ。おとぎ話で誤魔化そうとしていると思われたかもしれない。
灯耶自身、大学生の頃にこんな話を聞かされても信じなかっただろうと思いながら話していたから、それ自体にショックは受けていないのだが。
「そんなっ! 私はそんな作り話を聞きに来たわけじゃありません!」
「ああ、いや。作り話と思われても仕方がないんだけど」
「もういいッ!」
がばと席を立ち、店の外へと走っていく香澄。
浮かべていた涙は、馬鹿にされたと思う怒りからか、父が既にこの世に亡いと言われたショックからか。灯耶にも判別出来なかった。
このまま諦めてくれるのが彼女のためにも一番良いと思うのだが、それはどうにも楽観的が過ぎるような気がしている。
「怒らせちゃったね、辻崎さん」
「マスター」
「駄目だよ、女子高生相手に変な話しちゃ」
「反省してるよ。もう一杯もらえる?」
「はいはい」
カップを下げに来たマスターに紅ヒーの追加を頼みながら、ソファに背中を預けて天井を見上げる。
マスターにも悪食使いの素養はあるのだが、悪食の話をただの作り話だと思っている。普通の人間はそういうものだ。余程近い立場の人間のことでなければ、自分の記憶違いだと思うだろうし、そう思ったら遠からず綺麗に忘れてしまうものだ。
悪食使いの素養があることと、悪食の存在を信じることは同じではない。
「さて、あのまま進むと出会っちゃうよなあ」
逮捕された三日後に悪食に食われている。容疑が誤解と分かって釈放され、直後に何者かの悪食に食われたと考えるのは、さすがに偶然と不自然が過ぎる。
警察か、検察か。そのどちらかに悪食を飼っている誰かがいる。
「まいったね。また権力とコトを構えることになっちまった」
ほう、と深く息を吐く。
初めてではないが、あまり相手にしたくない相手だ。何しろ話が通じない。
香澄が何の対策もしないままに突っ込んでしまえば、簡単に餌食になってしまうだろう。
灯耶としても、あまり目立つ形で連中と関わるのは避けたいところだ。
「ああ、そういや一人知った顔がいたな」
と、灯耶は何日か前に因縁の出来た弌藤という男のことを思い出した。
あの男ならば何かを知っているかもしれない。特に、周囲に灯耶のことを吹聴しないだろう所がなお良い。
運ばれてきた紅ヒーを一息に飲み干して、灯耶もまた席を立つのだった。
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