裁く

 人はまず、悪とは何かを定めた。

 全ての者が望むことを、全て叶えることは出来なかったから。誰もが少しずつ我慢し譲ることで、その範囲から逸脱することを悪であると決めた。

 人が増えることで、悪の範囲は増えた。

 群れの中の位置づけによって、悪が悪でなくなったり、悪でないことが悪になったりもした。

 時は流れ、人は増えた。肌の色や、使う言葉、それが違うだけで悪と決める者が現れた。

 更に時は流れ、勝手な悪の決めつけもまた悪とされた。

 悪とは何か。人に寄り添い、人の悪を喰らってきた怪異は、自分が何を喰えば良いのかよく分からなくなってしまった。


***


 弌藤いちふじ弐貴にたかは、検事という肩書を持っている。

 ただし、彼が所属している部署が外部に知られることはなく、彼が自分の肩書を公の場で行使することもない。そもそも、彼の存在や部署を知る者もまた、極めて少ない。

 仕立ての良い白のスーツを着こなしているが、そんな派手な格好で歩く彼を周囲は奇異の目で見ることすらしない。

 まるでいることに気づいていないかのように。

 職場の廊下を歩いていても、誰かとすれ違っても。まるで無視されているかのようだが、弐貴は意に介さない。

 地下に降り、所属する部署の区画に入る。

 すると、途端に周囲から視線が向けられるようになる。


「やあ弌藤さん。お疲れ様」

「相模さん! お疲れ様です」


 にこやかに挨拶を交わす。弐貴を見かけた全員がもれなく弐貴に声をかけ、弐貴もまた律儀に返事を返していく。

 そういう内規があるわけではない。しかし、ここではそれが普通なのだ。入ってきたのが弐貴でなかったとしても、これと同じ光景が発生する。弐貴が相模の席に座っていれば、弐貴はここにやってきた全員に声をかけたに違いない。

 見かけた全員と軽い会話を行いながら、目当ての部屋に向かう。

 扉を開ける前に、深呼吸。緩んでいた表情を硬く締め、静かにドアを開けた。

 面談室。

 別名を処刑場、あるいは処理場という。


「お待たせしました、鹿島さん」


 まるで取調室のような殺風景な部屋。地下だから窓もなく、あるのは粗末な机と椅子、申し訳程度の蛍光灯だけ。

 落ち着かない様子で座っていた初老の男は、少しばかり怯えた様子で弐貴の顔を見つめてきた。


「あ、あの。ここは一体」

「失礼。鹿島伸一郎さんで間違いありませんね? 詐欺容疑の」


 鹿島からの質問には反応せず、確認だけを手短に行う。

 弐貴の硬質な声に怯んだのか、鹿島は質問を繰り返しはしなかった。小さな動きで軽く頷き、自分が鹿島伸一郎であることと詐欺容疑で立件された事実を認める。


「確認が取れましたね。それでは、これより執行に移ります」

「!?」


 問答無用の進行に、今度こそ鹿島が表情を変えた。


「執行!? 執行ってなんですか! 裁判は! べ、弁護士を――」

「残念ですが、ここに通された時点であなたは既にそれらの権利を喪失しています」


 あくまでも弐貴の言葉は冷ややかで、鹿島は二の句を継げない。

 だからここからは、執行官でもある弐貴からの最後の慈悲である。本来は必要のない手続きではあるが、昔から執行官はこの手続きをわざわざ行うものだと先輩たちからは聞いている。


「あなたの行った詐欺は、報道などで手口が広まることで社会に極めて悪い影響を与えることが懸念されます。私たちはそれを防ぎたい。だからあなたはここに通されました。この『抹消課』にね」

「抹消課……!?」

「はい。ここでの処置により、あなたの存在はあらゆる記録、記憶から抹消されることになります。そのため、あなたの罪状も消失し、裁判などの必要性もまたなくなるということです」

「えっ?」


 何を言われたのか分からないらしく、怪訝そうな顔をする鹿島。無理もない。理解など出来ないだろう。これはあくまで手順に過ぎない。そこに意味など求めてはならないと、弐貴は先輩からそう指導されている。

 この場所に入った後に、ここから出られるのは執行官だけだ。弐貴はおもむろにジャケットのボタンを外した。上着を脱ぐと、上着に擬態していた存在が本性を現す。


「私たちは伝統的にこれを悪食と呼んでいます。これに捕食された受刑者は、この世界から文字通り抹消されます。不思議なことですね?」

「ば、バケモノ!?」


 真っ白い体毛の、不定形の怪物。蠢き具合によって、熊のようにも虎のようにも見える。ボタンと同じ、血のように真っ赤な瞳が、椅子から転げ落ちた鹿島をじいっと見つめている。

 後ずさりした鹿島は、壁に背中を貼り付けてあえいでいる。

 悪い夢だと現実逃避に走る者、命乞いをする者、どうにか逃げようと足掻く者、持ち主である弐貴を害そうとする者。弐貴がこれまで見てきた処分対象の姿は数多くあったが、この様子はさして珍しいものではない。

 静かにたたずむ悪食に告げる。


「悪食。彼は悪だ。残さずおあがり」


 悪食はがぱりと口を開いた。


***


 抹消作業が終わるまでの間、悪食は擬態を行えない。

 だから執行官は抹消作業の気配が消えるまで、椅子に座って静かに待つ。

 悪食は人を記憶ごと抹消してしまうからか、宿主の存在感をも希薄にさせてしまうという弊害がある。

 弐貴がこの区画に入ってくるまで声も視線も向けられなかった理由がこれだ。

 悪食に食われた者は世間から綺麗に忘れ去られるはずなのだが、時折不思議と抹消されたはずの記憶を残している者がいる。

 抹消課に勤めるのは全てそういった立場の人々で、彼らは潜在的に悪食の所有者候補である。過剰ともいえる挨拶は、社会から忘れられやすい彼らの互助的な自衛手段なのだ。


「終わったかい」


 気配が消え、悪食がジャケットの姿に戻る。

 弐貴が連れている悪食は、この庁舎で運用されている三体の悪食のひとつで、最も古い個体だ。

 立ち上がり、静かに袖を通す。

 ドアノブに手を触れると、弐貴の指紋を読み取って鍵が開く。


「お疲れ様です、弌藤さん」

「ありがとうございます」


 自分の席に座ると、相模がにこやかに労ってくれた。笑顔で礼を言ってから、パソコンを開いて報告書の作成に取り掛かる。


『悪質詐欺犯抹消報告書』


 記載されるのは罪状と手口。これは抹消前に口頭で説明された内容の書き写しだ。抹消は極めて重い刑罰であるから、冤罪などあってはならず、証拠集めは入念に行われる。とはいえ、抹消にともなってそれらの成果は記憶と共に喪失する。報告書は捜査に尽力した者たちの評価に加算されるから、大変責任のある業務だ。

 鹿島の名前は記録されない。既に存在しないからだ。彼がいなくなったことは、世の中が不思議と上手く調整してしまう。これらの手口が世の中から忘れ去られることが彼らにとっての成果であり、もしも鹿島を抹消しても手口が誰かの記憶に残っていれば、冤罪ということになりかねない。報告書はそういった懸念の確認解消にも運用される、極めて重要な書類なのだ。


「ふいい、終わったぁ。抜けはないかな……っと」


 目を皿のようにして文字を追う。抜けが少しでもあっては一大事だ。何しろ、抹消課のスタッフ以外はこの事件を覚えていない。時間をかけて内容確認を済ませてから上長に報告書を提出する。


「武蔵野係長。確認お願いします」

「預かります」


 同じように真剣な顔で報告書に目を通す上長。大丈夫だとは思うが、抜けがあると自分の評価にも響く。緊張感の張り詰める時間だ。


「うん、抜けはないね。お疲れ様です弌藤くん」

「ありがとうございます!」


 ほう、と思わず大きな息をついた。

 実の家族たちからも忘れられつつある彼らは、だからこそ強い絆で繋がっている。親にも等しい上長から失望されてしまうと考えると、恐ろしくてたまらないのだ。

 一仕事終わった充実感と、周囲からの暖かい視線。

 自分たちが行っているのは、世の中の秩序を守るための崇高な仕事である。

 弐貴は抹消課で行われる業務を誇りに思っていた。

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