悪食ーあくじきー
榮織タスク
アウトローと公僕
喰らう
ぼりぼり、ごりごり。
何かを齧るような音が聞こえる。
遠く、くぐもったうめき声のような音が、徐々に小さく遠ざかる。
やめてくれ、たすけてくれと、そんな意味を紡いだような気がした。
「よう、兄ちゃん。生きてるかい?」
場末の路地裏、凄惨な暴力の現場。辻崎灯耶は場違いなほどのんびり声をかけた。
立っているのは二人、力なく横たわっているのが一人。
半グレ三人によるリンチを受けてぐったりしていた青年が、ゆっくりと顔を上げた。
「……誰だ、アンタ」
「ふむ、聞いていた特徴と一致するな。
「そうだけど、何なんだ……痛ぅっ!」
容赦のない暴行を受けていたらしい志田は、体を起こそうとして痛みにあえぐ。
そして立っている二人は、がくがくと震えながらこちらを見ていた。先程まで、凄惨な暴力を振るっていたとは思えない様子で、腰が砕けているのか逃げることも出来ないでいる。
ごくん、と。何かが飲み込まれたような音が空気を震わせ。
「くっ、黒いバケモノ!」
「やっぱり知ってるんだな。まあ、ありえる話か。恨まれてるねぇ」
音もなく、すぐ近くで何かが凄まじい勢いで削り取られている。そんな気配が辺りに満ちた。
得体の知れない空気が、年齢的には少年を卒業したばかりであろう二人を怯えさせている。
「きょ、キョーちゃんはどうなったんだよ」
「何だよ、お前ら何言ってんだ。そういや恭輔はどこに」
リンチしていた側も、されていた側も顔見知りらしい。
彼らが事情を理解するより早く、事態は動く。足元に広がっていた闇が、リンチをしていた二人にまとわりついたのだ。
「どちらかと言うと、君たちはとばっちりだな」
「ひぃぃっ!」
「嫌だ、助けてくれぇ!」
「なっ、何だよこれっ!?」
最初の一人が闇に捕食されたのを、志田は見ていなかったようだ。暴行のせいで意識が朦朧としていたのかもしれない。二人が闇に飲み込まれていく様を、呆然と見ている。
闇の方も、今回は齧るつもりはなかったようだ。先程よりも少し強めの嚥下音が響き、何かが削り取られる気配が満ちる。
「ま、悪いことをした報いってやつだ。諦めてくれよな」
「お、あれ? 痛くねえ」
志田があっさり体を起こした。逆再生のように怪我が治っていくが、当の本人にはそんな実感はないだろう。
気配は続いているが、志田はきらきらと目を輝かせてこちらを見る。
「これ、アンタがやったのか?」
「ん?」
「全然痛くねえ。骨、折れてたはずなのによ。恭輔の奴、本気でやりやがって……ったく」
ぺっと唾を吐く志田。その顔にも服にも、もう暴行の跡はまったくない。
立ち上がって、足元の闇をじっと見ている。
「黒いバケモノだっけ。本当にいたんだな、都市伝説だと思ってた」
人懐こい笑みを向けてくる。成程、人の心に入り込む手段をよく知っているタイプだ。恐怖を押し殺しているのか、自分を助けてくれたとでも思っているのか、表情からは読み取れない。
「全部忘れるには、食ってから少し時間差があってね。少しずつ消えていくんだよ」
「おお、知ってる。エージのやつが大騒ぎしていたからさ。次の日には騒いでたことも忘れてやんの」
ま、俺たちも何を騒いでたのかも覚えてないんだけどさ、と笑う。
「なあ、アニキ。名前。名前教えてくれよ」
「アニキって、随分突然だな」
「そりゃそうさ、助けてもらったもんな。俺、役に立つよ?」
自信たっぷりに自分を指差す志田。
お調子者であるのは、十分以上によく分かった。顔見知りが食い殺されたことにも動じないから、度胸もそれなりにあるのだろう。あるいは、自分が生き残るための方策をそれとなく察しているのか。
「それで? 何で殴られてたんだ?」
「恭輔のカノジョがさ、ちょっと俺の事を好きになっちまったみたいなんだよねぇ。それで呼び出されて、こうなっちゃったワケ」
悪びれる様子もなく、自分の失敗を語る。ふ、と思わず息を漏らした。
志田が満面の笑みを浮かべる。許されたとでも思ったらしい。
「それでアニキ、ターゲットは恭輔だったワケ?」
「何でそう思う?」
「だってほら、あいつらにとばっちりだって」
「そうだな、彼らはとばっちりを受けた」
優しい笑みを心がけて、告げる。
「
「え」
志田の表情が、固まった。
その足元には、既に闇がぬるりと巻き付いている。
胸ポケットから煙草を一本取り出し、咥える。足元の闇がオイルライターを差し出してきた。着火して、軽く吸って、静かに煙を吐き出す。
「あのままじゃお前さん、彼らに殺されてしまいそうだったからな。不思議なことに死体を食っても、その記憶は世の中から削り取られねえんだ、これが」
「あ、ひ。……お、おれじゃ、俺じゃない」
「残念。うちの猟犬は鼻が利いてね。お前さんの両手から、お嬢さんの怨念が漂っているってよ」
三人の半グレも似たような臭いをさせていた。程度の差はあれ、同じようなことをしてきているのは間違いない。
とばっちりでこの世界から削り取られてしまったが、彼らもまた、居なくなっても構わない『悪』である。
「助けて、助けてくれよ、アニキぃ!」
悲痛な叫び声。
「俺、役に立つ、役に立つからさあ!」
媚びるような態度。
「死にたくねえ、死にたくねえよお」
涙声の命乞い。
「別に、死ぬってわけじゃあない」
「えっ」
「お前さんがこれまでやってきたことも、お前さんに関する記憶も、お前さんが生きていたってことも、削り取られて消えてしまうだけさ」
怪我ならば、生きてさえいれば。先程の志崎自身がそうだったように、なかったことになる。人と社会の記憶を書き換えて、なかったことにしてしまう。
だが、残念ながら死んだ命は戻らない。ただ、『世の中』が勝手に辻褄を合わせてしまうだけ。人と社会の記憶を書き換えて、思い出にしてしまう。
「い、嫌だ! そんなの、死ぬより駄目じゃないか!」
「そうだな」
携帯灰皿を取り出す。とんとんと灰を落としながら、煙をゆるゆると吐き出す。
「けどなあ、それで救われる心もあるんだよ」
闇が、人の背丈ほどまでざぱりと持ち上がった。
志田が振り返り、声にならない悲鳴を上げる。
「貪れ――」
闇が開き、無数の牙と隠された赤が開かれ。
「悪食」
その全身を容赦なく挟み込んだ。
***
吸い切った煙草を携帯灰皿に押し込み、ポケットに仕舞う。
ざりざりと、耳の奥に響く音が途絶えた。
「お疲れ、相棒」
『若いのに、随分と味気の強い連中だったわ』
地面から起き上がるように現れたのは、闇をそのまま切り取ったような毛色の狼。そのように見えた。
眼球も黒一色。口を開きさえしなければ、本当にそこにいるか分からなくなりそうなほどの闇色。
怪異『悪食』。
喰らったものの因果をすべて世の中から削り取り、なかったことにしてしまう。
削り取られたものは人の記憶からだけでなく、程なく世の中からも忘れ去られることとなる。
「お、良かった。財布の中身は無事だ」
『まったく、銭に汚いのは相変わらずか』
時折、削り取られたはずのものを覚えている者たちがいる。
それは彼ら、悪食の宿主になる資格を持つ者ということでもある。
「お前なあ。人間様はその銭で買い物しないと生活できないの。いいのか? 寝床が駅前の段ボールでも」
『そ、それは駄目だ! 悪かった灯耶! アレだけはもう勘弁してくれ!』
今の灯耶に、家族のようなものはない。
前の持ち主から悪食を受け継いだ時に、家族も過去も振り捨てたから。
慌てた様子の悪食は灯耶の体に巻き付くと、黒い上着に姿を変える。
「さて、帰るか。今日はちょっといいもの食えるな」
『酒は?』
「安いの四本と高いの一本、どっちがいい?」
『多い方だな!』
安いやつ、と苦笑する灯耶。酒が飲めると上機嫌な悪食。
仕事を終えた二人の会話は、おぞましい怪異とその使い手とは思えない、和やかなものだった。
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