出逢う
喫茶『すぷりんぐ』。
喫茶店とは名ばかりの洋食屋というのが利用客の評価なのだが、テーブルごとに置かれた灰皿とメニューにあるドリンクの豊富さが喫茶店としてのささやかな主張だろうか。
人当たりの良さそうなマスターは、エプロン姿でカウンターに立っている。彼が気まぐれに作る角煮とハヤシライスが、この店の名物だ。白い帽子は被らないよ、というこだわりもまた、喫茶店だという彼のささやかな抵抗なのかもしれない。
辻崎灯耶はこの店の常連として、店の奥のテーブルをそれなりの頻度で占拠している。
「そうですか。お見送りは済んだと」
「はい。姉は随分と辻崎先生にお世話になったようで……」
「いえ、大したことはしていませんよ」
目の前に座っているのは、野島正吾と名乗った。野島三里香の弟ですと。葬儀が済んで、家で姉を悼んでいる両親に代わってここに来たのだという。
志田という男によって暴行を受け、入院していた野島三里香は数日前に息を引き取った。特に男女の仲ではなかったとはいえよく遊んでいたということなので、本人の素行自体は良くなかったようだ。
話を聞いてみると、永い闘病の末に力尽きた、という認識にすり替わっている。悪食に捕食された人間の影響がどう変わるのかは、実は灯耶や悪食自身にも把握出来ていない。被害に遭って亡くなった家族が、最初からいなかったことにされてしまった事例も確認している。
存在ごと忘れてしまうことと、死に様を書き換えられること。どちらの方が遺族にとって幸せなのか不幸なのか。
「両親から、お礼を渡して欲しいと言われています。ですから――」
「いや、それはもう受け取っていますから」
「でも」
「結局、直接お姉さんのために出来たことはほとんどありませんから。お気持ちだけで」
どうやら、野島家の認識では灯耶は姉の恩人という形に落ち着いたようだ。そもそも灯耶自身は野島三里香と会ったこともないのだが。記憶の変質によって、『娘の仇討ちを依頼した』から『娘が世話になった』とすり替えられたか。
忘れられなかったから支払いが消滅しなかったのかなと思うが、これも検証のしようがないことだ。
両親も弟も、灯耶の世話になったことは理解しているが、何をどう世話をしたのかはまったく抜け落ちている。
灯耶は彼らの記憶の違いを指摘などしない。適当に話を合わせるだけ。
突き返された分厚い封筒を懐に戻すと、野島正吾は立ち上がった。無言で頭を下げて、外へ。その顔にはどことなく安堵の色が見えたから、きっと無理して作った金だったのだろう。
目だけでそれを見送りながら、灯耶はマスターに声をかける。
「マスター、紅ヒーをひとつ」
「後悔しますよ?」
「大丈夫」
お決まりのやり取り。野島正吾は注文をしなかったから、お義理のようなものだ。
鴛鴦茶の準備を始めるマスターの横、カウンターに白一色のスーツ姿が見えた。
***
「マスター、あの人も常連さん?」
「ああ、辻崎さんのこと? そうだよ。探偵さんか何かかな。よくあの席で色んな人と話してる」
紅ヒーとは何ぞや。
弐貴が気にしたのは、単純に彼の頼んだ商品を聞きとがめたからだ。メニューには書かれていないから、常連なのだろうと当たりをつける。
黒いジャケットと、特徴のない風貌。だが、どことなく不安をかきたてられるような印象を受けた。おそらく社会の裏側に居を置いている。どことなく、着ている悪食が気後れしているような気配も。
視線を向けないようにしていたが、辻崎と呼ばれた男はふらりと席を立ってこちらに歩いてきた。弐貴の隣にわざわざ座る。
「時々見かけますね。その白一色、記憶に残る」
「そ、そうですか。弌藤弐貴と言います。よろしく」
「辻崎灯耶。ちょっとした何でも屋、みたいなもんです」
互いに軽く頭を下げる。
弐貴はそれだけで辻崎という男に少しばかり好印象を持った。名前のことに特別触れなかったからだ。
「へえ、お客さん弌藤さんっていうの。初めて聞いたね」
「店で名乗ることなんてあまりないですからね」
「俺は席の予約で名乗ったことありますんで」
紅ヒーなる飲み物を淹れたマスターが振り返る。見た感じ、それほどおかしな飲み物には見えないが。
思わず視線が吸い寄せられたのに気づいたのだろう、辻崎は少しばかり含み笑いを漏らした。
「これ、気になります?」
「鴛鴦茶って言ってね。紅茶とコーヒーを混ぜたものさ。うちの裏メニューね。辻崎さん、これ好きなのよ」
「ええ。割合によって味わいが違うのが好きで。……ん、今日はコーヒー強め?」
「分かる?」
一口飲んだ辻崎の様子に、弐貴も興味をそそられる。
「あの。そしたら僕もそれ、ひとつ」
「後悔しますよ?」
さっきも言っていたが、何なんだろうその決まり文句。
ふたたび背を向けたマスターから興味を辻崎の方に戻す。見た目とは裏腹に、意外と明るいようだ。
とはいえ、特に共通の話題もない。自然、話題はこの店と、背中を見せているマスターに向かう。
「この店には通われて長いんです?」
「ええ。ここのハヤシライスのファンでしてね。マスターはコーヒーに合うハヤシライスって触れ込みなんですが、本当に合うのかはよく分からなくて」
「確かに。僕は角煮の方が好きですね。角煮定食、美味いです」
「あれも紅茶に合うって触れ込みでしたっけ。そろそろ創作料理の店って名乗った方が良いんじゃない? マスター」
「やめてよね辻崎さん。これは元々バイトのみんなへのまかないなの。辞めた子が食べたいって言うから出したら広まっちゃってさあ」
ぶつぶつとぼやきながらも、声は何だか嬉しそうだ。
普段のメニューでもあれが美味いこれが美味いと話が弾む。
「お待たせ、弌藤さん。これが当店自慢の紅ヒーです」
出されたカップに口をつける。初めての味だが、確かに癖になる。悪くない。
今日だけと言わず、時々頼みたくなる。
「これ、コーヒーが強い?」
「ふふ、弌藤さんはまだまだだね。今回は同じだけ」
「ありゃ」
辻崎の真似をしてみたが、上手く行かなかったようだ。
当の辻崎はくすくすと笑いながら、マスターの悪戯をたしなめる。
「マスターも意地悪だね。割合変えたんだ?」
「そりゃ、初めて飲む方にはね。辻崎さんはどの味でも楽しんでくれるからさ」
「ひどい!」
「まあまあ。ご馳走様、マスター」
本気ではないが、苦笑いでマスターに苦情を申し立てる。
辻崎はくいっとカップの中身を飲み干すと、懐から財布を取り出した。
「マスターはいい人だよ。記憶力もすごくいいしね」
「そんなことないよぉ辻崎さん! 色々間違えて覚えてるんだよ、他のお客さんに訂正されたりしてね!」
「そうなの? 昔のことも最近のことも、けっこう覚えているでしょう」
辻崎とマスターの間には常連らしく会話の積み重ねがあるらしい。
弐貴はこの店に通うようになってから、まだ一年も経っていない。自分の顔をしっかり覚えてくれているマスターが心地よくて、それなりの頻度で通っているが、まだまだマスターのことも店のことも、他のお客の事も知らないのだなと少しばかり寂しさを覚える。
「いやいや全然。八瀬真直って名前で覚えてたんだけどさ。ほら、交際していた女優を包丁で刺して逃げたって俳優」
ぞわりと、弌藤の背中に寒気が走った。
抹消課で抹消した人物の名前が飛び出したからだ。
「お客さんがさ、そんな芸能人も事件も知らないって言うんだよ! テレビに出てる人たちを間違えるようになっちゃおしまいだよねぇ」
「あらら。でも確かに、俳優が女優を刺した事件なんて覚えてないなあ。そういうサスペンスドラマと間違えたんじゃないの?」
「ああ、そうかもしれないね。八瀬って名前も登場人物か何かかな」
「かもしれないね。じゃ」
笑い合って出て行く辻崎。その背を見送ることもできず、弐貴は冷や汗が背筋を伝うのを感じていた。せっかくの紅ヒーの味も、何だかよく分からなくなっている。
「ありゃ、口に合わなかった?」
「い、いえ。そんなこと。美味しいです」
説得力はないだろうなと思いつつ、カップの中身を一気に飲み干す。やっぱり味は分からない。
ご馳走様と席を立つ。千円札を一枚カウンターに置いて、マスターに背を向けた。
「あれ、ピラフは? 今日は食べていかないのかい」
「済みません、急ぎの仕事を思い出したもので」
「そっか。間に合うといいね」
マスターの邪気のない顔が見られない。軽く頭を下げると、ふらふらと店の外へ。
食事などという気分ではなかった。
思い返してみれば、マスターには不自然なことが多かった。忘れられやすいはずの自分の顔をよく覚えていたこと。今までは特に気にしていなかったが、知ってしまったら当然のことだと理解できる。
カランカランと鳴るベルを背に、ドアを閉める。覚えている。悪食が喰らった人間のことを。抹消課の内規が頭の中を埋め尽くす。抹消課の内容を知っている外部の者は抹消課に勧誘すること。それが受け入れられない場合は、
「――殺さなきゃならない、か?」
悲鳴をすんでのところで飲み込むことが出来たのは、職業倫理か別のなにかか。
射殺しそうな目を向けると、そこにはすぐ前に店を出たはずの男の顔。
「つっ、辻崎さん……?」
「改めてご挨拶だね、ご同輩」
店の中とはまったく違う、凶暴さをたたえた笑みを浮かべ。
「辻崎灯耶。あんたと同じ、悪食使いさ」
黒い上着をもこりと蠢かせてみせたのだった。
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