魂よ、叫べ。

鷹宮 センジ

無題


自分という人間をどうすれば【人間】の枠に押し込めることが出来るか、そればかり考えていた。

正しく生きるという事を、他人と足並みを揃えて他人の言うことをよく聞くという事だと理解していた。

人間はまず【人間】という枠を作ることから始める。そこに他人を当てはめて少しずつ修正を加え、そして自分をそこに押し込める。

成長するにつれて感じたのは、この枠があまりにも小さすぎたという事だった。

子供から大人になるにつれて世界は大きくなっていく。それにつれて一人一人が作った枠も変形していく。時に歪み時に壊れる枠から溢れてしまった自分を治すのは中々に骨が折れる作業で、僕の場合その作業をどこかで致命的に失敗したのだろう。歪み方は人それぞれで、小さな歪みであれば軽い修正やごまかしで何とかなるのだろうが、大きすぎる歪みは日常生活も歪めてしまう。

僕の場合、その歪みは執着として現れた。快楽への執着。過去への執着。現状への執着。苦しみから逃れるために快楽へ浸り、未来への恐れを抱いて過去の栄光に縋り、より良い自分が想像できずに現状の自分で満足しようとする。そんな生き方が他人への関わり方も歪めていく。

子供の頃は誰かと関わることに抵抗感を微塵も抱かなかった。他人と自分を隔てる物は空間しかないと考えていた。声が届きさえすれば誰とだって話せる。そんな考えは僕を無敵にした。

もちろん、それは間違いだった。

今でははっきりと覚えていないが、強い恐怖を覚えている―「まともじゃない」という言葉が心の中心に巨大な腐りかけた杭として刺さっている。何千、何万もの時間をかけても分かり合えない人間がいるのに、どうしてその心の壁を乗り越えて言葉を交わせるのだろうか。その考え方は異常だとどこかで知った。二人の間に物理的な障害がどこにも無いとしても、心理的な障害が万里の長城を幾重にも重ねた様にそびえている事だって当たり前にあるのだ。

その分厚い壁を一枚一枚、時には剥がし、時には乗り越え、時には長々と迂回して近づく過程こそが仲良くなるとか打ち解け合うとか表現されるヤツなのだが、僕はその段階を学び切る前に「他人にいきなり話しかけるやつはまともじゃない」という呪いが強力に作用してしまってどうにも前に進めなくなってしまった。

今のはほんの一例に過ぎず、僕の心にはこうした呪いの杭が大量に突き刺さり、腐り、心を蝕んでいる。

その苦しみから逃げた先は色々ある。あまり口に出せない(だが誰しも経験している事)逃げ先は流石に控えさせていただくとして、それは例えば創作活動だったり、読書だったり、ゲームだったりした。僕の心は常に現実世界からの侵食を受けて疲弊していたので、現実以外のどこかに心を置けば一時的に苦しみから逃れることが出来た。

そしてこれも至極当然の流れだが、僕はそうした世界に依存した。すっかり染まりきった。

ハリーポッターのシリーズなんかは正しく最高だった。主人公が両親を亡くし、叔母の家で虐められながら育った酷い環境から魔術学校からの招待を受け取り摩訶不思議な魔術の世界で新しい経験を得て成長していく物語。自分はハリーと比べれば非常に恵まれた環境で育っていた訳だが、だからこそハリーに憧れ、魔法の世界に憧れた。100%の共感を抱いてしまうと逆に物語への没入感が薄れ、現実を否が応でも認識してしまうが、程よい共感と同情が物語を味わい深くする。

他にもドラゴンライダー・シリーズ(主人公エラゴンが竜に選ばれ旅をする長編ファンタジー)やビースト・クエストのシリーズ(主人公トムが仲間と共に呪われた王国の守護獣を助けに行くファンタジー)など、小学生の頃の自分を夢中にさせた物語は沢山ある。ファンタジーに並んで謎解き要素も好きになった僕は、その両方を味わえるデルトラクエストのシリーズが特にお気に入りとなった。

今にして思えば謎解きの内容が少し無理のあるものもあったが、原語が英語なのだから仕方ない。翻訳してくれた人には本当に感謝しかない。

主人公リーフが第1シリーズ、第2シリーズ、第3シリーズと数々の苦難を乗り越えた末に辿り着いたハッピーエンドが大好きだった。心の底から嬉しいと思ったし、ハリーポッターシリーズに並んで好きな終わり方で、僕は嫌なことがあった日に必ずそれを読み返していた。

さて、この時僕が犯した過ちは2つあった。1つは日常の些細な物事にさえ鬱屈とした感情を抱いてしまっていたこと。自分のミスが原因で叱られるという時も、謝ることを優先せずに逃げることを優先し、ベッドに寝転がって本を読んでいた。そしてもう1つは、母親の言葉を本気にしなかったことだ。母親を舐め腐っていたボンクラは、母親の幾重にも渡る最終通告を全て聞き流していた。そうした文句にいちいち屈して謝って言い訳して後悔して暗い気持ちで過ごすより、最初から無視して逃げればそれが一番いいと勘違いしていたからだ。

その結果、僕が当時最も愛していた本は…デルトラクエスト第3シリーズの最終巻は…庭で燃やされた。

燃えにくい素材だったカバーを燃やすために、新聞が大量にくべられていた。僕はそれが現実だと認識したくなかった。これは嘘で幻で夢なのだと考えた。確かに母親は言った。「これ以上言うことを聞かないというなら燃やすよ」と言った。再三言った。それに従わなかった自分が悪なのだと悟った。

今はもう母親のことは恨んでいない。数年後、僕は燃え残ったカバーをずっと本棚に収めていた甲斐があり母親から謝罪と新しいデルトラクエスト最終巻を受け取った。僕は母親を心の底から許している。誰だって間違いをするものだし、本を燃やすなんて行為を母親は二度としないだろう。

恨んでいるのは自分自身だ。

自分だけは絶対に許せないし許すべきでは無い。この十数年ずっと僕は自分を許していない。これから先も許すことは無い。

今まで何度も自分を変えるチャンスを父から、母から、兄から、弟から、親戚から、友達から、先生から、その他たくさんの人達から貰った。それなのに僕は何も変わっていない。辛いことから逃げてはそのしっぺ返しをくらい、どん底へ沈む。その繰り返しに心底飽き飽きした僕は何度もこの人生を終わらせようと試みた。

だがそれも許されない事だった。再考するまでもなく、僕は死ぬべきじゃない。こんな自分も身の回りの人にとっては人間である事に変わりなく、それぞれの枠を構成する要素の一つであるからだ。僕が死んだとしたら、きっと家族の枠を永遠に歪めてしまうだろう。自分自身を呪ってきた僕が、その全てからもたらされる苦しみから逃れる為に他人を呪うのは絶対に避けなければならない。なぜなら僕が受けた恩は一生かけても返せないからだ。

恩を返せない事実を抱えたまま、僕は呪いに抱かれて惨めに生きるしかない。その苦しみを僕は今では主にゲームへ向けていた。

だがこれが非常に良くなかった。ゲームをするというのは本や漫画を読むのとはまた違った面白さがある。自分がまるで主人公のように振る舞えるという要素は特別な高揚感を僕に惜しみなく与えてくれる。その代償としてゲームに没頭する時間はどんどん増える。何せ現代のオンラインゲームはユーザーを休ませてくれない。手に入れたユーザーを逃さない為にあらゆる要素を詰め込んでいる。

僕がゲームを楽しみ、同じくゲームをしている人の動画を参考にする為だと言いつつ片っ端から観て、Twitterでゲームの感想やらファンアートの閲覧だかをしているうちにあっという間に一日が過ぎていく。この快楽に終わりがないと気付いても中々辞められない。

おぞましいと感じた。ゲームに対してもそうだが、やはり自分自身に対して強く感じた。なぜなら同じゲームをしている知り合いはみんなゲームと折り合いを付けて、自分の将来を目指して正しい道を歩んでいたからだ。

今でも僕はこれらの逃げ先を自分で封じようと努力しているが、少なくともこうして文章を書いている時点で既に失敗し続けている。いくら高尚な文章を書いたところで現状は何も変わらないと言うのに、ましてやこんな鼻を噛んだあとのティッシュにも劣る内容を書いて何になるというのだろう?

だが少なくとも今の自分は少し前の自分よりはマシだと感じている。ゲームに浸りきっていた自分から距離を置くことに今は成功している。酷い文章を書き連ねる方がダラダラとゲームをしているより多少はマシだろう。マシだと思いたい。

だから僕は自分という人間を枠に押し込めるに当たって中毒状態を無理矢理堪えているようになるのだが、押し込めた枠から膿が漏れ出て溜まっていくにつれて、僕の中にふつふつと怒りに似た別の感情が湧き上がってくるのだ。

いや、それはやはり怒りと言うべきかもしれない。ただしそれは決して他人に向けるものでは無い。自分に向けられるものだ。

大学を受け直すために勉強を積む中で、一向に向上しない学力。それ以上に向上しないモチベーション。我慢しているはずがつい手を出しては夜遅くまで起きた末に生活リズムを崩し遅刻する。そうした情けない自分への巨大なムカつきを一つの塊にしたものが腹の中をゴロゴロと転がり続ける。

その塊を吹き飛ばすために、僕は魂を叫ぶ場所を意識していない時ですら探してしまう。今のところその場所はカラオケでどうにか落ち着いているが、そのカラオケに誰かを同席させるなんてことは決して出来ない。同席する誰かに対して自分自身をさらけ出すのは僕にとって厳しすぎる。そもそも“叫び”故に声がデカすぎて鼓膜にかなりのダメージを受ける可能性がある。

何よりその叫びは他人に向けるべきものでは無い。自分自身に向けなければならない。

失敗を続け、成長せず、他人をないがしろにし続ける自分への怒り。赤の他人に聞かれたところでその赤の他人の枠が歪む可能性はゼロだろうから気にしやしないが、自分を知る人の枠を僕は少しも歪めたくは無いのだ。

そう言いつつこれが矛盾した行いである事も知っている。枠はいつ形を変えても不思議じゃない、というより全く変形しない枠を持つ人間は稀で、人のどんな行いであれ枠の形を少なからず変えてしまうからだ。

僕が枠を変えないようにと他人との接触を親であろうと避ける行いは、既に連絡を無視された側の枠を変形させている。どうせ変形するのであればいっそ連絡を取ればいいものを、ありもしない恐怖を勝手に作り出してそれに触れる事を避ける為に連絡に応じない。これは社会人として恥ずべきことだ。

僕は自分の行いに対して常に絶望を重ね、悲観し、目を逸らし続ける。その末に迎える結末がハッピーエンドであるはずもなく、僕は自分を構成する枠を必死に矯正しようとして抗いながら闇の中に落ちていくしかない。

そしてだからこそ僕は自分の身近にいる人をみんな尊敬している。その生き方が他人から見れば間違っていたとしても、自分という枠を自分でしっかり見つめている人間しかいないからだ。

自分らしい生き方を誰かの迷惑にならない範囲で実行できる人間、それこそが僕の理想であり、永遠に手が届かない尊いものだ。

【人間】から外れ「まともじゃない」僕が歌に代えて綴ったこの“叫び”もまた、理想に届く前に燃えて灰になるのだろう。

それでも叫ばずにはいられないのだ。

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