第28話
ビルのエレベーターを降りると、涼々はエントランスの壁にもたれかかった。彼にリップを押しつけるように返したあの日と同じく、行き交う人々がちらりと怪訝な目を向けてくる。日が落ちた外には雪がちらついていて、そのおかげかエントランスの冷たい空気には、肌を刺すほどの鋭さはなかった。
病み上がりの体調は万全ではなく、いつまでも彼を待ち続けることは難しかった。新年早々に長時間の残業とは思いたくないが、患者が押し寄せた今日のクリニックの様相を思い返すと、彼もまた溜まった仕事に追われている可能性も十分に考えられた。
手袋をしたまま、バッグから手のひらほどの大きさの紙包みを取り出す。母がため込んでいる、頂き物の百貨店などの包装紙を再利用したものだ。それは、彼のカミングアウトの成功を祝い、これからを始めるための、プレゼントだった。
壁に背を預けたまま、スマホでニュースを流し見する。あまり興味のない芸能ゴシップを深追いして、うつむいた首が痛くなり始めた頃に、その声が降ってきた。
「涼々さん!」
佑輔はエレベーターではなく、階段でエントランスに下りてきていた。最後の段を飛び越して、涼々に駆け寄る。色を塗らずとも荒れ一つなくふっくらとしている唇でも、黒いスーツで一層引き立つ白い肌でもなく、彼という全身が涼々の目に飛び込んでくる。
「心配しました、お返事もないので……大丈夫でしたか?」
「大丈夫。ごめん、ありがとう」
寒さで舌がうまく回らなかったが、自分の口からそんな言葉が出たことに、涼々はやや驚いた。それは彼も同じだったようで、目を丸くして涼々を見つめている。
「それより、どうしたんですか、こんなところで」
言われて、涼々は手の中の包みを無言で差し出す。彼を見つけて心臓が跳ね上がったとき、無意識に手を握りしめていたようで、包装には皺が入ってしまっていた。
「なんですか?」
首をかしげながら、押し付けられた包みを彼は素直に受け取る。
「開けてみて」
命じるようなきつさもなく、患者に言うほど事務的でもない、澄んだ言葉が涼々の身体から出ていく。自分の身体のどこにそんな声が出せたのかと、彼と合わせていた目線を外し、戸惑いにまばたきを繰り返した。
彼はまだぽかんとした表情のまま一つうなずき、包装を裏返した。涼々がありあわせのテープでとめた部分を、古い包装紙が破けないよう、慎重にゆっくりと剥がしていく。その指先を見つめながら、涼々は早まる鼓動を抑えるように胸に手を当てた。気に入ってもらえるだろうか、という緊張さえも飲み込んで、見てほしい、と全身が叫び出す。二重に巻いたマフラーの下にはうっすらと汗がにじんでいた。
ころり、と小さな細長い袋状に縫われた布が、彼の手のひらに転がり出る。上の方は取り出し口のような段差になっていて、さらにその上にはストラップ金具がついている。
「これは」
「リップ、これに入れて。それで鞄につければ、絶対落とさないから」
それは昨日、思いつきで作ったリップホルダーだった。ネットで作り方を調べ、型紙も取らずに一気に縫い上げた。
「これ、涼々さんが作ってくれたんですか」
ホルダーを裏返したりぶら下げたりしながら、へええ、と佑輔は心からの感嘆の声を漏らす。涼々にしてみればずいぶん簡単なものだったから、ためつすがめつして真剣に眺めている彼の反応がなんだかこそばゆかった。
「前に、手芸をやるって言ってましたけど、こういうのも作れるんですね」
ありがとうございます、と佑輔は目を輝かせて、いそいそと鞄の内ポケットからリップを取り出す。
「涼々さんにいただいたの、使わせてもらってるんです」
そのリップはホルダーにすっぽりと収まる。彼は内ポケットのファスナーにストラップをつけて、できました、と軽く涼々に持ち上げて見せた。
「うん、よかった」
軽くうなずきを返した涼々の中では、静かな嵐が巻き起こっていた。手芸の話を覚えていてくれたこと、あんなふうに押し付けてしまったリップを使ってくれていたこと、すぐにホルダーを使ってくれたこと。それだけでこんなにも血が速く巡り出すなど、これまでの涼々は知らなかった。引きはがすように、手袋とマフラーを外す。
「あの、それでね」
ためらいがちな声は、誰かに受け止めてもらえなければ、裸のアスファルトに落ちる雪の結晶のように消えてしまいそうだった。しかし佑輔は、涼々の声と視線とを、誰にも踏まれていない新雪のように柔らかくつかまえて、促すように目を細めた。きっと、もっとずっと前から、同じ目をしてくれていたはずだった。今ようやく、涼々はその目を真っすぐに見つめ返すことができた。
「少し、話したいんだ、けど」
生まれたばかりのよちよち歩きの衝動が、こわごわとその足を踏み出す。彼は驚いた様子もなく、むしろ待ってましたと言わんばかりに大きく、はい、とうなずく。大げさなほどにすべてを受け止めてくれようとする彼は、まるで学校の先生のようだった。すべてを見透かしたようなその眼差しに射抜かれることは、不快ではなかった。
「じゃあ、夕飯でもどうですか」
知り合った頃からは想像もつかないほどに、余裕たっぷりに微笑んで彼は言う。その笑顔がにやりといたずらっぽく崩れて、あのときと真逆ですね、などと涼々が思っていたのと同じことを言うから、つられて涼々もふっと吐息で笑った。
二人連れ立って外に出ると、火照った頬がひんやりと心地よく冷やされた。ぴったりと並ぶわけではなく、ちょうどいい塩梅の距離感を探るように、半歩遅れたり、また半歩前に出たりして、駅前通りを歩く。
いつかと同じファミレスの前で、自然と二人の足が止まった。何を話していいか、まだよくわからないのに、それでも大丈夫な気がしていた。まずはとりあえず、判で押したような日々に至るまでのことを。その先に、今まさに吹き荒れている芽吹きの嵐がある。それを彼に語るのはおそらく、別の意味も持ってしまうだろう。それを告げるかどうかは、そのときになったら考えればいい。
「さあ、どうぞ」
先に立って店内に入り、席の空きを確認していた彼が、内側から扉を押さえて涼々を呼ぶ。店内から流れてくる暖房の効いた空気を大きく胸に吸い込んで、涼々は扉の向こうへ飛び込んだ。
紅い唇 鈴野広実 @suzuno_hiromi
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