第27話

 重い身体をベッドから引きずり上げ、涼々は階下のキッチンへ向かう。身体はだるく、かすかに熱っぽい。居間には、冬の真昼の透き通った陽光が差し込んでいて、涼々は少しふらついて目を細めた。

 今朝、床で目覚めた瞬間、昨夜のさまざまな出来事や思考と一緒に、強烈な身体の重さが涼々を襲った。明日は仕事なのに何をやっているのかと、すでに自己嫌悪に沈みきっていた自分をさらに責めた。しかし、寝ること以外に何もできないこの状況は、今の涼々には救いでもあった。そのまま、まどろんでは目覚め、何か少し口に入れてはまたまどろむという単調な作業を、涼々はむしろ進んで繰り返していた。

 水道からコップに水を注いで、そのまま飲む。身体は渇いて水分を欲しているのに、水の冷たさは拒もうとしていた。一口流し込むと、冷たい塊が身体の中心を流れていくのをはっきりと感じる。コップの水を乱暴に流しに捨て、緩慢な動作で電気ケトルをセットした。

 何度かの浅い眠りの中で、やはり、あの紅い色は夢に出てきた。しかしそれは、果実や花のようにデフォルメされた美しさではなく、明確に男性の身体の一部として、眼前に横たえられていた。

 真っ白な世界、ゆらめく陽炎の向こうに、紅い色が見える。その方向へ進んでいくと、病室のような無機質なベッドに彼が横たわっている。身体には一枚の布がかけられているが、その布の上からもはっきりと、痩身ゆえに男性的な硬さを色濃く映す輪郭が見て取れる。涼々はぴたりと足を止める。紅い色の引力と、自らの躊躇が、涼々を両側から引っ張ってつり合ってしまったかのように、涼々をその場に縫い留める。

 二つの力は、打ち消しあうことはなく、永遠に涼々を苛むかのようだった。だから涼々は、自らの胸に手を差し入れ、赤黒く脈打っている衝動を取り出して、その場に置いてきた。引き裂かれそうな情動からの解放感に比べれば、痛みは微々たるものだった。眠りから覚めて、身体が軽くなっているのを感じたとき、熱が下がっただけではないのだと、強引にそう思い込むことにした。

 古い電気ケトルがようやく動きを止めた。白湯を少しずつ身体に流し入れる。夢の中に捨ててきたものの代わりに、透明で無害なもので身体を満たそうと、コップ二杯分の白湯を啜った。

 いくぶんか調子が戻ってきて、腹ごしらえをして風邪薬でも飲もうと、涼々は戸棚の菓子類を漁る。母のため込んだ煎餅やビスケットの類のおかげで、小腹を満たすものには困らなかった。

 早く仕事に行きたかった。そしてまた、ロボットになってしまいたかった。これ以上、あの執着を抱えていても、自分で入り込んだ袋小路からはどのみち出られないのだ。早くロボットになって、感情のための器官など捨ててしまいたかった。

 薬を飲んでコップを片付け、階段を上りかける。一段目に乗ったとき、滅多に鳴らない固定電話がけたたましく鳴った。ため息とともに電話台を振り返る。おそらく友梨の家に行っている母からだろう。他にこの電話にかけてくるのはセールスくらいだ。無視しようとして、ふと思い直す。母と話せば、いつもの自分を取り戻せるかもしれない。普段はあれほど疎ましい母なのに、今はそれさえも、単調な日常の大事な一部分に思えた。

 母の見るテレビに負けないよう、呼び出し音量も最大に設定してある電話に近づくと、まだ熱のある頭にベル音が響く。危険物を扱うかのように受話器をつまみ上げた。

「何」

 もとより機嫌の悪さを隠すつもりはなかったが、がさついた喉から出た一言はあまりにぶっきらぼうだった。

『あ、お姉ちゃん? 久しぶり、友梨だよ。あけましておめでとう』

 こちらの邪険な調子などものともせず、きらきらと効果音でもつきそうな声で話しかけてきたのは、一昨年の挙式以来会っていない妹だった。いろいろなことがありすぎて、新年の挨拶にもとっさに反応できない。ああ、うん、としか言わない涼々に構わず、少女漫画の飾り文字にでもなりそうな声で、友梨は続ける。

『今ね、旦那とお母さんが買い物に行っちゃってて暇なの。まあ、私が頼んだんだけど。それで、新年だし、お姉ちゃんどうしてるかなと思って』

 お母さん、こっち来てからいろいろごはん作ってくれたり、おせち料理も用意してくれてたんだけど、ぜんぜん食べられなくって……と、尋ねてもいない友梨の話が続く。悪阻の体験談など涼々には興味がないどころか、嫌悪感さえもよおすのに、止めることすらおっくうでそのまま聞き流してしまう。

『気持ち悪いのはなくなってきたんだけど、今はトマトばっかり食べてるんだ。昔は好きじゃなかったのにさ、好みまで変わっちゃうんだよね』

 不思議だよね~、とあっけらかんと言ってのける友梨に、涼々は返す言葉が何も見つからなかった。トマト嫌い! と駄々をこねていた小さかった頃の友梨と、今話している相手が同一人物であるということの方が、涼々にとっては何倍も不思議だった。

「そう、なんだ」

『お姉ちゃんは? 最近何かあった?』

 何もないことをわかっているような聞き方だったが、わざわざ言い返すつもりもなかった。むしろ、何もなかったことにしてしまいたくて、涼々は錆びつきそうな喉と舌に鞭を入れた。

「別に何もない。毎日、仕事行って、母さんの面倒見て、それだけ。母さん、あんたの妊娠がわかったときは大喜びしてた。あと、友梨が置いてった服、使っちゃったけど、もう着ないんだからいいよね」

 早々に話すことはなくなって、受話器を持ったまま家の中を見回してみても、友梨がいた頃と変わったことなど何一つない。まあそんな感じ、と一言添えて口をつぐんだ。

『……お姉ちゃん、なんか変わったね』

「え、何が」

『前は、そんなに話してくれなかったじゃん。誰かいい人でもできたの?』

「いや、そんなことは」

 思わず大声を出してしまって、痛みが走った頭を押さえる。どくどくと脳の血管が脈打つのがわかるようだった。変わった、という、あまりにも想定外の友梨の言葉をどうにか理解しようと、全身の血液が脳に集まっていた。

 急に黙った涼々を不審がるでもなく、友梨はのんびりと話し続ける。

『やっぱりさあ、人と話すのって大事だよね。最近、ずっと家にいるから、ぜんぜん話し足りなくって。お母さんもまあ、話聞いてはくれるけど、やっぱ旦那がいちばんかな。きっと子供産まれたら、それどころじゃなくなるんだろうけど』

 からりとした友梨の声を聞きながら、涼々の頭の中では、記憶から消してしまおうとしていた彼の声が響いていた。涼々さんの話も、と何度も求めていた彼の意図は、結局、なんだったのだろうか。

「話を、するだけなの」

『え、うん』

「楽しいの」

『そりゃあ、まあ。話してて楽しいなって思ったから、結婚までしたわけだし』

 問い詰めるような調子の涼々にたじろぎつつ、友梨はごく当たり前のことだと言わんばかりに、語尾を上げて同意を求めてくる。しかし涼々は、相槌一つ返せなかった。

「そういう、ものなの」

『どうしたの、お姉ちゃん。やっぱりなんかあった?』

 友梨の気遣わしげな声に、別に何も、と手短に答える。友梨に聞きたいことがいくつも浮かんではいたが、それを明確な言葉にすることは難しかった。

『あ、ママ帰ってきた。じゃあ切るね、話つきあってくれてありがと』

 こちらの返事も聞かず、何事もなかったかのように友梨は電話を切る。不通音が鳴るだけの受話器を握ったまま、涼々はしばし呆然とそこに突っ立っていた。

 話してて楽しいと思ったから。至極当然のことのように友梨は言ったが、涼々にとってはそうではなかった。涼々にとって重要なのは、色やかたちであって、きっと友梨たちもそうなのだろうと、だからこそ自分と彼らの世界は交わらないのだと思っていた。

 もちろん、自分が彼らと違う世界に生きていることに変わりはない。しかし、住む世界にこだわるあまり、色やかたち以外のものを見ようとしてこなかったのも、また事実だった。

 また熱が上がってきたのか、意識が朦朧としてくる。額に手をやると、確かに熱いような気もしたが、それがどこの何の熱なのか、涼々には判然としなかった。


 相変わらず不通音を鳴らし続ける受話器を、そっと耳に当ててみる。仕事で電話をかけたときにこの不通音が聞こえても何とも思わないのに、単調な音が今、やけに心細く聞こえた。

「もしもし」

 友梨には言わなかった挨拶を、誰もいない受話器に投げかけた。涼々さん、と、彼の声が脳裏に聞こえる。その声を発しているのは、紛れもなくあの紅い色のはずで、目を閉じれば彼の像を容易に結ぶことができる。しかし涼々は、色もかたちもない白い世界にあえて留まった。

 艶めかしさを削ぎ落とされた中音域の声は、慕わしくまとわりつく子供のようでもあり、頼もしく先を行く壮年のようでもあった。その声が、涼々さんの話も、と、求めるように導くようにこだまする。

 どうして、と問うと、声は、強いから、と答える。しかしその声は、首をかしげるかのような疑問形で、語尾が真っ白な空間に溶けて消えた。

「違う」

 反射的に叫んだ声もまた、無限にも思える壁のない世界に吸い込まれていく。

「私は」

 口を開いてみても、言葉が続かない。いったい私はなんなのだ。静寂が空間を満たし、何もない世界が本当の無になる。

「聞かせてください」

 都合のいい幻聴だ、と思った。人に聞かせられること、聞かせて意味のあることなど、何もないというのに。

 目を開けると、見慣れた自室の天井があった。窓の外は、橙色から薄暗く変わりつつある。いつどうやって部屋に戻ったかもさだかではないのに、無意識だからこそなのか、しっかりと布団をかぶって涼々はベッドに横たわっていた。

「私は」

 自分で放った独り言に驚いて、涼々は身体を起こし、きょろきょろと部屋を見回した。部屋で長年黙っていた人形が、意志を持って話し始めたかのような衝撃があった。電話や母への返事以外では人の声が刻まれたことがなかった空間に、独り言はいつまでも留まっているようだった。

 この先を続けたい。大きく息を吸う。しかし、空気は透明なままで、涼々の口から出て行ってしまった。そこに乗せるべき言葉を見つけられずにいる涼々の中で、発作のような衝動がゆっくりと目を覚ます。それは色やかたちを欲しているのではなく、ただそこで息づくこと、そしてその呼吸を誰かに気づいてほしいと、そう願うものだった。

 現在時刻を確かめようと、昨晩からバッグに入れっぱなしのスマホを手に取る。まだ十六時を回ったところだった。充電残量の表示が一桁にまで減った通知欄に、着信がある。彼からだった。

『昨日はありがとうございました。体調は大丈夫ですか? 今日も寒いのでお大事にしてください。』

 文字から彼の声が立ち上り、夢で聞いていたのと同じ声が、涼々の鼓膜を揺らす。その声を形作るのは、涼々の想像でしかない夢などではなく、これまでに彼から聞いた言葉の記憶だった。記憶が涼々の深くにまで染みこんでいるのだった。

 がば、と布団を跳ね上げて立ち上がる。そうだ、あの言葉は、幻聴などではないのだった。聞かせてくださいと、確かに彼は、そう言ってくれていた。生まれたばかりの衝動の種が、彼だ、彼こそ、と一斉に芽吹き出す。

 話したいことがはっきりと決まっているわけではない。それでも、彼になら、それでいいと思った。二つの性のどちらとも同じではないという彼になら、わからないことそのものを、そのまま話してもいい、そんな気がした。

 これまでのことを話したら、強い、だなんていう誤解はあっという間に解けるだろう。ふっ、と小さな笑いが漏れて、それを楽しみにしている自分に気づく。乾ききった唇から吐息とともにこぼれたそれは、決して冷笑など含んではいなかった。

 階下で水を飲んで戻ると、涼々は机の脇に置いてあった大きな紙袋をひっくり返した。色も素材もとりどりの布たちが、寝乱れたままのベッドにまき散らされる。求める色はすぐに見つかった。袋の一番底に眠っていた、白地に赤を基調とした大きめのチェック柄のシャツは、これから作ろうとするものにはちょうどよかった。

 勢いよく袖を裁ち落とす。使う人の顔を思い浮かべてものを作ることなど、手芸部の頃でさえ、したことがなかったかもしれない。差し出したときの反応を想像してみたくなるような、穏やかな情念に衝き動かされて、涼々は黙々と手を動かし続けた。

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