第26話
どうやってタクシーを拾ったのか、よく覚えていない。気づくと涼々は、家から徒歩五分のコンビニの駐車場で、タクシーから降りるところだった。少し入りくんだ自宅の場所を説明する気力すらも、どこにも残っていなかった。
降り出していた重たい雪は、払っても落ちずに、涼々のコートに染みこんでいく。しかし不思議と寒いとは思わなかった。酔いも火照りもとうに醒め果てていたが、涼々の身体には寒さを感じる余裕がなかった。
転ばないように、たった今積もったばかりの雪の上を踏みしだいて、家までの道を歩く。普段はこの距離のコンビニにも車を出してしまうから、歩いて家に向かうのは本当に久しぶりで、下手をしたら高校時代以来かもしれなかった。
すべての音が雪に吸い込まれていくような静寂の中、一人歩きの慰みに、遠い思い出に浸ってみる。今しがた起きたことについては、無視を決め込むことにした。
バスを降りて二十分の道すがら、あの頃考えていたのはいつも、手芸部の先輩のことだった。長い髪で表情を隠していたから、クラスの人気者というわけではなかったけれど、その掴みどころのない大人びた雰囲気に密かに憧れていた後輩は多かったはずだ。そして涼々は、自分の中にあるものが、周りの言う憧れなどとは違うことに気づいた。
彼女の手は、こんな雪のような手だった。舞い落ちる雪片の中に自らの手を差し出して思い出す。白く、しっとりとしていて、華奢なのに存在感があった。器用にぬいぐるみに綿の命を吹き込むその手から、目が離せなくなった。ミシンがうまく使えずにいたとき、そっと手を添えて教えてくれた日には、耐えられずに逃げ帰ってしまった。
いわゆる初恋というものなのだと、今ならば単純にそう理解できる。しかし当時は、家の前に差し掛かるといつも、その思いを押し殺していた。これから至って普通の家に帰るのだからと、庭に敷かれた砂利を踏む不快な足音と一緒に、自分の感情を踏みつぶしていた。
人っ子一人、車一台いない夜道だったが、横断歩道の赤信号にはきちんと立ち止まった。信号機の上にも、赤く点灯する人型を包み込むように、雪が降り積もっていた。星の見えない真っ黒な背景の中、そこだけが強い彩度で浮き上がっている。赤と白。かつて焦がれた色と、今、自分を狂わせる色。
どすん、と音がして、右肩にかけていたバッグが、地面へとずり落ちた。立ち止まったままなのに、全力疾走してきたかのように、心臓と肺が必死に動き始める。
同じだった。あのときと、ほとんどが同じだった。手を伸ばしたいのに、触れてしまうのは怖くて、そんなことを望むなどありえないのだと、自分を何度も殺す。もう十年以上経っているのに、今の涼々がしていることは、高校生の頃となんら変わっていないのだった。
いつの間にか歩行者信号は、青信号の時間を終えて、再び赤い人型を光らせていた。身体の表面を寒さが急に襲ったかと思うと、内側では血が熱く巡り始め、温度差でガラスが割れるように、身体が引き裂かれそうだった。再び青信号になるのを待って、追い立てられるように小走りで家の玄関へと転がり込んだ。
雪も払わず家に入り、誰に遠慮することもなく足音を立てて、コートを着たまま自室の床にへたり込む。十年来ほとんど変わっていない室内の風景は、涼々をかつての感情に容易に引き戻した。
あの頃の幼かった自分でも、確かに理解していた。触れることさえ怖いのは、特別な感情なのだと。クラスメイトたちが、かっこいいと噂の先輩を遠巻きに見てきゃあきゃあはしゃいでいるのと、なんら変わりないのだと。そして間抜けなことに、今ようやく、また同じことをしているのだと、世間で恋と呼ばれるものに陥っているだけなのだと、気づく。
ああ、とも、うう、ともつかないうめき声が、ため息とともに涼々の喉奥から漏れた。爽快感など全くない。むしろ背負う荷物を増やされたかのように、涼々は背中を丸めた。
認めてしまいさえすれば楽になるならば、職場で指摘されるまでもなく、とうの昔にそうしていた。それができなかったのは、自分で一度決めたことを、覆せなかったからだ。たとえ流れ着いただけの結論だとしても、男の身体には触れないという生き方を、変えることが恐ろしかったのだ。
エアコンを入れないままの部屋は冷たく、涼々の頭を妙に冴えさせる。激しい感情の流れに溺れそうな自分を、どこか遠くから冷静に分析する自分もいた。
あのときと違うのは、触れてはならないと己を呪って縛る、その身体のかたちが、女のものか男のものか、ということ。そして何より今、自分を縛っているのは、世間や親の目ではなく、他でもない自分自身であるということだった。
壊れたような乾いた笑いがこぼれた。こんな後ろ向きの、消極的な消去法の果てに行きついた場所なのに、そこから離れることができないのだった。怠慢なのか恐怖なのか、それとも単なる思考停止なのかはわからない。とにかく、今さら変えることなどできない、それだけは確かだった。
自分も彼と同じく、自分で決めるということをしていたのだと思い至っても、彼のあのまばゆいばかりの言葉たちとの落差に、消えてしまいたくなる。自分で決めたように見えるのは、後付けの結果論であって、そこにたどりつくまでの道のりは雲泥の差だ。
大きく一つ身震いをする。冷たい床に体温が奪いつくされていた。指一本動かしたくない気分だったが、わずかに残った生存本能が、ベッドから毛布を引き寄せた。そのまま床に丸まって横になる。そのまま涼々は、何もかもから逃げるように眠りに落ちた。
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