第25話
「じゃあ、改めて、乾杯」
年が明けて二日の夜、涼々と佑輔は落ち着いたダイニングバーのテーブル席についていた。紐のれんで半個室に仕切られた店内は、おそらく普段ならばもう少し静かなのだろうけれど、年始の休みに旧交を温める人などで席はほぼ埋まっていた。
「ここ、前に仕事の忘年会で来たことあって。どうですか?」
「いいところ。というか、全部任せちゃって、ごめん。一応、あなたの成功を祝う会なのに」
いえいえ、自分が来たかったので、と佑輔は屈託のない笑顔で応じる。間接照明に照らされた白い頬は、食前の白ワインですでに赤く染まっていた。前菜のカルパッチョに使われているオリーブオイルのソースで、今日は色を染めた彼の唇が、艶めかしく光沢を帯びる。
「今回は本当に、ありがとうございました」
「ん、何が?」
気の抜けた返事は、彼のために何かをしたつもりがないから、というだけではなかった。もう見られないかもしれない彼の色を、目に、記憶に焼き付けることに、全神経を集中させていたのだ。
「いろいろと、相談に乗っていただいて」
「ああ、いや、別に、何にもしてないし」
グラスを傾けて喉を潤す。ちょうどパスタを運んできた店員に、次のグラスを頼んだ。
「今日だって、こんなところ連れてきてもらって。むしろこっちがお礼言わなきゃ」
いやいやそんな、と彼はかぶりを振る。もう少し大げさだとわざとらしくなる、その一歩手前の仕草が、嫌味のない本心を伝えていた。
「でも、涼々さんのアドバイス、すごく役に立ったというか、大きかったです」
「あたし、何か言ったかな」
パスタを絡める手を止めて、彼の顔を見る。助言などした覚えは全くなかった。
「ほら、ラインしたときに、自分で選べばいい、って。それで吹っ切れたというか、自分で決めていいんだなあ、って。ほんと、あの言葉のおかげなんです」
しみじみと思い出すように語る彼には、涼々が謙虚にふるまったように見えたらしかった。
「考えてみたら当たり前のことなんですけどね。自分のことだから、自分で決める。……涼々さん?」
途中までパスタを絡めたフォークを持ったまま、どこか遠くに視線をやって静止している涼々に、佑輔が呼びかける。わずかな間のあと、ようやく気づいた涼々は、ああ、と軽い作り笑いを浮かべた。
「あたしなんて、全然。あなたが頑張ったんでしょ」
やや早口に言うと、クリームソースがすっかり流れてしまったパスタを口に運ぶ。まあ、そうかもしれませんけど、でも、とまた礼を重ねる彼の声は、涼々の耳に入らなかった。
自分のことは自分で決める。その言葉が眩しすぎて、自分から出たものとは思えなかった。何の気まぐれだったのか、今となっては思い出せない。涼々自身は、選ぶどころか、流れ着いた先にしがみついているようなものなのだ。
「それにしても、うちの姉、なんて言ったと思います?」
話したくてたまらないといった様子で、佑輔は事細かに姉とのやり取りを再現する。あまりに円滑なそれは、決して誇張ではないことは彼の話しぶりから見て取れたが、涼々にはどうしても、できすぎたドラマのようにしか聞こえてこない。久しぶりに会った姉弟の、お手本のような会話の報告を聞きつつ、料理をグラスワインで流し込んだ。
「服でもコスメでも、何でも教えてあげる、なんて。そこまでじゃないんだけど、って言ったら、わかってくれたみたいなんですけどね」
涼々がフォークに刺したピッツァから、たっぷりとかかったチーズが取り皿に流れ落ちる。次々と言葉を紡ぐ唇に釘付けになってしまう自分の目を、無理矢理に彼から引きはがして、やや味に飽きてきたピッツァを口に入れた。
佑輔の話を聞いているだけで、会ったこともない彼の姉が、彼と笑いあって歩いている姿が目に浮かんでくる。あの公園での会話、駅ビルでの買い物、年の暮れの居酒屋、それらすべての記憶の中で、自分の姿が彼女に置き換わっていく。もう自分の出番はないのだ。ワインが進みすぎたせいか、焦るような動悸がしてくる。
本当は、今日はあまり飲まないつもりだった。以前のこともあって、自分が何をしてしまうかわからないことが怖かった。しかし、軽やかに話し、飲み、食べる彼を見ていると、そのまま羽根でも生えて遠くに行ってしまいそうで、そんな馬鹿げた想像を押し流そうと、またグラスに手が伸びる。今日は彼も酒が進むようで、つられて涼々もまた次のオーダーをする。
「なんか、すみません。また自分ばっかり話して」
よほど喉が渇いたのか、彼は運ばれてきたグラスワインを、およそワインに似つかわしくない勢いでぐびぐびと飲み干す。紅い唇の下で、武骨な喉仏が逞しく踊った。それそのものは、生前の父や、断りきれなかった飲み会などで散々見てきた光景だった。しかし今なぜか、人生で初めて目にするもののように、そのワンシーンが涼々の脳天を突き抜けた。
涼々の顔から、さっと色が引いた。全身の血液が下に持っていかれるようで、ぐらついた上半身を支えようと、とっさにテーブルに手をつく。
「涼々さん? 大丈夫ですか?」
アルコールのせいか、少し鈍く大きくなった声で、佑輔が気遣う。しかし涼々はうつむいたまま、顔を上げることができなかった。あの可憐な紅い花弁の下に、恐ろしく頑丈な幹があって、そこからこの声が発せられているという事実を、目にしたくなかった。
「ちょっと、飲みすぎたみたい。お手洗いに」
言い終わる前に席を立ち、やや覚束ない足取りで化粧室に向かう。なんでもいいから、ひとまず彼から離れたかった。
個室を出て、洗面台に手をつく。清楚だが作り物めいた芳香剤の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。下を向いたまま目を閉じて、これまで見ていたものを思い出そうとする。
ぼんやりとした輪郭の、紅い色。果実、焔、落葉、さまざまに形を変えるそれは、彼という肉体に張りつくと、そのまま動かなくなる。拡大表示していた画面を急に元に戻したように、紅い色以外の情報がどっと流れ込んできて、涼々の幻想を壊していく。骨張った喉、細くても肩幅の広い背中。見たくもないその先まで想像してしまう前に、頭を左右に振ってイメージを追い出した。
正面を向いて、鏡の中の自分と目を合わせる。青白く生気のない顔に、きらびやかな照明が映りこんだ目だけが、異様な光を反射している。その光を受け止めると、言いようもない嫌悪がこみあげてきて、吐いてしまおうとしても、乾いた咳しか出てこなかった。胸をさすりながら、少しでも胸のつかえを解きほぐそうと試みる。
男性ではないという彼の表明を、当たり前に受け入れていた。だからというわけではないが、素直に美しいと、夢に見るほどに触れたいとさえ思った。しかしそこにある身体のかたちはまぎれもなく、涼々が触れることをやめたものだった。涼々の中で矛盾という化け物が頭をもたげ、とぐろを巻いて重くのしかかってくる。
幸い化粧室には涼々のほかには誰もおらず、冷たい水で大胆に顔を洗った。簡単な化粧をしてきてはいたが、元よりしてもしなくても変わらない程度だったから、多少崩れようが落ちようが構わなかった。
ハンカチで顔を拭い、顔の周りに乱れたセミロングの髪を手に残った湿気で押さえて、ようやく涼々は化粧室を出た。磨き上げられた床を一歩ずつ踏みしめながら、間違っても彼に何かをぶつけてしまわないようにと、自分に言い聞かせる。今も涼々の胸を押しつぶそうとしてくる矛盾は、自分一人で抱えるべきものであって、彼が思うままに在ろうとすることとは、何も関係がないのだ。
「遅くなって」
ごめんなさい、と続けようとした言葉は、涼々の喉の奥に消えた。彼の身体の一部であるはずの紅い色が、そこだけ浮かび上がってくるように、涼々の視界を一瞬で支配した。
よほど疲れていたのか、それとも強くないのにワインを飲んだからか、彼は目を閉じてまどろんでしまっていた。テーブルに運ばれていた牛肉の赤ワイン煮込みからは湯気が消えている。
その色は、あまりに無防備に、そこにさらけ出されていた。夢の中で、あれほど何度も手を伸ばしても届かなかったことをあざ笑うかのように、涼々の目の前に差し出されていた。一歩踏み出せば、いともたやすく、その色を手中に収めることができた。
もしこれが、見慣れたかたちのものだったら、躊躇などないはずだった。しかしそこにあるのは、男の身体に、彼にしか知りえない唯一無二の魂を宿す存在だった。少しでも触れてしまえば、今にも散りそうな花のように、奇跡的な均衡で保たれているその美しさを、壊してしまいかねない。そうなったら、彼という夢が、身体という現実になってしまう。
震えながら伸びていこうとする右腕を、左手で抑え込む。早鐘を打つ心臓の音、あるいはあえぐような呼吸の音で、今にも彼が目を覚ましてしまうのではないかと思った。よろめくように二、三歩テーブルから遠ざかる。ブーツの低い踵が、固い床で足音を立てた。
「ん、あれ、涼々さん」
目を開けた彼は、寝起きだからか酒のせいか、ろれつが回っていない。席にも戻らず、顔色は良くなるどころかもはや土気色になっている涼々を、曇りのないつぶらな瞳で見つめてくる。裡に秘めているはずの醜い欲望も葛藤もすべて見透かされてしまいそうで、彼の正面の席に戻ることなど、涼々にはもうできなかった。
「ごめんなさい、ちょっと、体調が良くないみたい。本当にごめん」
彼との間に壁を作るように言葉を繕いながら、財布を開いて目についた数枚の千円札をつかみ出し、枚数も数えず乱暴に置く。コートの袖に腕を通し終える前に、涼々は逃げるように店を後にした。
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