第23話
年末の最終診療日の眼科クリニックは、駆け込みの患者でごった返していた。次々に流れてくる患者を涼々は機械的にさばいていく。
再診料、検査料、診断料。流れてくるものに身を任せて、涼々は努めてロボットであろうとした。それでも時折、頭を空にしようと躍起になっている自分に気づいて愕然とする。そんな努力を必要としたことなど、ここ十年の記憶には一度もなかった。
あの日、あんなに近くに、彼の紅があった。手を伸ばせば、いや伸ばすどころか、ほんの少し持ち上げれば、今にも触れられる距離だった。その色や、自分のしたことを思い出すだけで、脈拍が狂い出す。酒の席でのことを思い返して恥ずかしくなる、などという話は他人事だと思っていたのに、まさか自分がそんな状態で仕事をしているとは認めたくはなかった。
冬休みに入った子供や、年内の仕事を終えた勤め人など、平日とはまた違った患者たちが、暖房と加湿器の効いた待合室で入れ代わり立ち代わりしている。その中には友梨のような妊婦もいたが、涼々の頭の中は、主に佑輔のことで占められていた。
今日からが年末年始休暇だと言っていたが、彼は今頃、実家に向かった頃だろうか。車で一時間もかからないそうだが、山越えの道らしいから、このまま晴れているに越したことはない。慎重な彼のことだから、明日、姉が帰ってくるのに備えて、もう一度段取りを確かめるのだろう。実家の母親とは何を話すのだろうか。
数分おきに、窓の外の空模様を窺ったり、パソコンの画面右下の時間を確認したりと、ふとした瞬間に意識が彼のことに引きずられていく。幸い、仕事の手順も台詞も、寝ていてもできるほどに身体に染みついていて、多少気が散るくらいは問題ないはずだった。
「おい、これ、少ないんだが」
しわがれた声がした方を見上げると、今しがた会計を済ませて帰ったはずの壮年男性が、領収書を手に怖い顔をして立っていた。
「釣りが足りなかったんだよ。ほら」
男性は、カウンターに叩きつけた領収書の上に、手に握っていた小銭をバラバラと落とす。涼々が瞬時に目で数えると七三〇円あった。しかし領収書の金額は二一七〇円とある。
「俺は三千円出したんだよ。わかる? 百円足りないの」
人を小馬鹿にしたような態度にも苛立ったが、それ以上に、自分が釣り銭を間違えたということが、涼々を必要以上に焦らせた。就職したての新人のようにぺこぺこと謝りながら、文字通りの低姿勢で百円硬貨を差し出す。男性はコイントレーに入った硬貨をむんずと鷲掴みにして、せいせいしたように去って行った。
ちょうど患者の波が途切れたこともあって、涼々は呆然と男性の背中を見送った。こんなことは、ここに転職して数年間で初めてのことだった。人が来ない間にやっておくべき診療報酬の整理も、会計ソフトの画面を開いただけで全く手につかない。
「ちょっとあんた、最近おかしいんじゃない」
隣で診察受付を担当している同僚が、不意に涼々に話しかけてきた。涼々が転職してくるずっと前からいる、年配の女性事務員だった。入ったときに仕事を教わった以外、挨拶以上の会話を交わしたことはなかった。
「おかしい、ですか」
「ぼーっとしすぎ。好きな男でもできたのかい」
同僚はつっけんどんにそう言い放つと、直後にやってきた新規受付の患者に向けて、優しげな笑みを作って見せる。放っておかれた形になった涼々の頭の中で、好きな、男、という言葉が何度もこだました。
自分にとって、好きという言葉と結びつくのは、女性だけのはずだった。それどころか、年を重ねるにつれて、好きなどという感情そのものが、おとぎ話に出てくるような、非現実的なもののように思えていた。
しばらく触らずにいたパソコンの画面が消えてしまい、涼々は申し訳程度にマウスを動かす。こんなとき、患者が来てくれたらすぐに切り替えられるのに、処置に時間のかかる患者が多いのか、一向に会計が回ってこない。
ふと待合室を見回すと、兄弟でまとめて連れて来られている子供も二組ほど目に入る。一組は母親に大声をたしなめられつつも、楽しそうにじゃれあっているが、もう一組は母親も含めてむっつりと押し黙ったまま、スマホやゲームに没頭している。彼と姉も、前者のように仲がいいのだろうか。それでも、どれほど仲が良くても、カミングアウトがうまくいくとは限らない。大丈夫だろうか、と心配ばかりが涼々の中で大きくなっていく。
「代わります」
背後から昼交代の事務員の声がして、涼々は再び自分の意識が遠くに行ってしまっていたことに気づいた。あまり進んでいない作業画面を消して、あくまで平静に、二言三言の引き継ぎを行う。バックヤードに戻り、大きく伸びをしたが、座りどおしで固まった身体はなかなかほぐれない。
彼への心配、あの紅い色への執着。確かに今、好意という安易な言葉で、それらをまとめて説明することも、できてしまうのかもしれない。しかしそれは世間一般の話であって、涼々自身には決して当てはまることのない理屈だった。そんなに簡単に、好意という一言で済んでしまうならば、これまでの自分の半生はなんだったのか。
窓の外、駅前の商店街からは少し奥まった路地の飲食店でも、クリスマス用の赤い花の装飾が目立つ。葉っぱのような形をした花弁が、まるで唇のように見えて、涼々は思わず目を閉じた。動悸を鎮めるように、そのまま深呼吸を繰り返す。
胸に手を当てると、そこには確かに、衝動のようなものがある。しかしこれに名前を付けるなら、それは決して、好意などではない。涼々は休憩用の机で弁当を開くと、御しがたい感情を抑え込むように、無心で弁当をほおばった。
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