第22話

 黒いバンダナを巻いた居酒屋の店員に案内され、襖の前に立つ。その向こうの個室では、佑輔が涼々を待っているはずだった。

 五日ほど前、久しぶりに彼から連絡が来た。年末に姉と会う機会があるが、そのときにいよいよカミングアウトをしたいから、相談に乗ってほしい、という内容だった。二つ返事で引き受けるつもりだったが、待ち構えていたようにすぐに返事をするのはきまりが悪く、ずるずると会話を引き延ばしてしまった。そして今晩、ここで会うことになったのだった。

 襖に手をかける前に、頭からすべての雑念を追い出そうとする。実際に彼に会うのは久しぶりだったが、夢の中ではほとんど毎日会っている。しかもあからさまに自分の欲望が表れた夢だ。デリケートな相談事とはいえ、個室の居酒屋をセッティングした自分の浅ましさに、今さらながら腹が立った。

「こんばんは」

 第一声には当たり障りのない挨拶を選んで、扉を開ける。狭い和室の、掘り炬燵を挟んだ入口側の席に、佑輔は座っていた。

「あ、涼々さん、お久しぶりです。今日はありがとうございます」

 お礼の言葉が自然に滑り出る彼の口ぶりに、涼々は懐かしささえ覚えた。うながされるままに、炬燵の向こう側の席へ座る。

「とりあえず、ウーロン茶二つでいいですか」

 涼々が軽くうなずいたのを見て、佑輔は店員を呼び、シーザーサラダや卵焼きなど、定番のメニューと一緒に注文した。

 店内は忘年会シーズンの喧騒に包まれており、難しい注文でもないのになかなか料理が運ばれてこない。これだけうるさいなら、わざわざ完全個室でなくてもよかったかもしれない、と涼々がぼんやり考えたとき、佑輔が待ちきれないというように口を開いた。

「あの、自分が考えた計画、聞いてくれませんか」

「計画?」

「計画というか、段取りというか。まず、姉に謝るところから話し始めようと思うんですけど」

 ちょっと待って、と涼々は片手を上げて佑輔の話を制した。扉のすぐ向こうを、店員が通りかかる気配がしたのだ。どうやら用があったのは隣の個室だったらしく、忙しそうな足音はほどなく遠ざかって行った。

「気にならないの?」

 怪訝そうな表情を浮かべている彼に、同じ表情をそのまま返す。

「こんな話、聞かれたくないでしょ」

 緊迫した涼々の声を受け流して、彼は何気ない調子で言った。

「なんだか、ずっと考えてるうちに、あんまり気にならなくなってきたんです。こそこそしてても仕方がない、っていうか」

 皮膚の薄い彼の頬に少し赤みが差す。強がりなどではない、ということが涼々にもわかった。毎日夢で見ていたはずの顔が、まさしくその夢と同じく遠ざかっていくような気がした。

 涼々が佑輔から視線を外したとき、ようやく店員が個室の扉を開けた。ウーロン茶で乾杯をする。

 佑輔の計画というのは、姉のリップクリームを勝手に持ってきてしまったことを謝ってから、そのわけを話す、というものだった。実家に帰ってくる姉を迎えに行って、まずは姉と二人の状況を作って、という細かい段取りを、涼々はほとんど口を挟まず、かと言って箸もさほど進まず、軽く相槌を打ちながら聞いていた。

「どうですかね」

「どうって」

「うまくいくと思います?」

 問いかける形を取っていながらも、彼の弾んだ声はすでに、答えを確信しているようだった。

「うん、まあ、いいと思う」

 もしうまくいかなかったらどうするつもりなの、と喉元まで出かかった言葉を押しとどめて、当たり障りのない肯定に終始する。おそらくこの人の姉であれば、拒絶することはしないのだろうな、と思うしかなかった。

「というか、私に聞く意味あった?」

 ウーロン茶のグラスを持ち上げながら、嫌味ではなく、率直な疑問を口にする。相談に乗ることを了承したのはこちらだったが、彼の話は相談というよりも、ほとんど報告に近かった。

「ありますよ」

 佑輔はほんの少し声を張っただけなのだろうが、すっかり油断していた涼々はその語気の強さに驚き、飲み込みかけていたウーロン茶に軽くむせてしまった。大丈夫ですか、と心配する佑輔に、うなずきだけで答える。

「あの、やっぱり、聞いてもらってよかったです。自分だけじゃ、なんとなく不安なので」

 佑輔の言葉は真剣そのもので、咳が収まった涼々の目を懸命に捉えようとしてくる。涼々はその視線から逃れるように、机上のメニュースタンドに手を伸ばした。

「あ、何か飲みます?」

 彼はすぐに反応して、机に身を乗り出し、涼々が広げたメニューを一緒にのぞき込もうとする。特に希望があるわけではなかったが、そう言われるとついドリンクのページに手が伸びる。人と外で酒を飲むなど、最初の職場での飲み会以来かもしれなかった。最初に目についたウーロンハイを指さすと、佑輔が注文ボタンを押す。おつまみ適当に頼みますけど、嫌いなものとかないですよね? という彼の問いに、涼々はうなずくだけでよかった。

 ウーロンハイとモスコミュールで改めて乾杯をする。店内は相変わらず騒がしく、隣の部屋でがなり立てる男性の声がこちらにまで漏れ聞こえていた。

「涼々さんはお酒強いんですか?」

「わからない。強いかもしれないけど、あんまり飲まないから」

「なるほど。自分はそんなに強くなくて」

 前の職場では、男なんだからってよく飲まされて大変でした、と何でもないことのように佑輔は振り返る。自虐的な笑いにするでもなく、かと言ってそんなかつての環境に怒るでもない彼の穏やかな言葉には、老成したような落ち着きさえ感じられた。

「前の職場って、保険、だっけ」

「そうです。前に話したの、覚えててくれたんですね」

 グラスはまだ半分も空いていないのに、佑輔の頬はすっかり紅潮していた。

「あのときは、毎日スーツ着て出勤するのが嫌だったんですよねえ。今は全員スーツだから気にならないんですけど、前は女性だけ、いかにも接客って感じの制服で」

 すぐに酔いが回るのか、幼い舌足らずな声で、高校の制服は嫌じゃなかったんですけどね、自分、将棋部だったんですけど、と取りとめのない昔話が始まる。饒舌になった彼は、涼々のやる気のない相槌でも十分楽しいようで、聞いているだけの涼々もどこか居心地のよさを感じていた。

 ウーロンハイをあっという間に空けてしまい、涼々は自分でボタンを押してハイボールを頼む。入部時から始まった思い出話が二年の新人戦に差し掛かったあたりで、不意に涼々が口を挟んだ。

「ねえ、そういえば、今日はリップ塗ってないの」

 控えめな居酒屋の照明でも、彼の色の白さははっきりとわかる。しかしさすがに素のままの口元は、ややくすんで見えていた。

「外では……通勤中とか、ほんとに人に会わないときだけです」

「いいじゃん。今、あたししか見てないよ」

「涼々さん、さっき注文したから、すぐ店員さん来ますよ」

「気にしないんじゃなかったの?」

 酔った頭でも、彼が本気で嫌がっているのではないことだけは、むしろ直感的にわかっていた。そして混雑のピークが過ぎたのか、ハイボールはすぐに運ばれてくる。店員が襖を閉める音が合図だった。

「じゃあ、ちょっとだけ。帰りには落ちるでしょうから」

 そう言って彼は鞄の内ポケットを探る。リップスティックには塗装が少し剥げた個所があった。ぽこん、と小気味いい音がして、紅い色が顔を出す。わざとらしいほどの鮮やかさだが、これが彼の唇に塗られると、恐ろしく映えるのだということは、もうわかっていた。

 スティックの中に沈んだ色を出そうと、佑輔が本体を回したが、ある一点で回転は止まってしまう。彼は無理に力を加えることはしなかった。

「なくなりかけてるんですよね。結構使っちゃってて」

 弁解するように、視線をリップから涼々へと移した彼は、わずかに飛び出した色を唇に押し当てる。しかしすぐに、プラスチックの固い感触に首をかしげた。

「もう終わりかな」

「私、持ってる」

 唐突な涼々の切迫した声は、何か命に関わる重大な事実を思い出したかのようだった。持ってる? と間抜けた声で復唱する佑輔は放ったまま、バッグの中を手荒く探る。活用しきれていないいくつもの内ポケットを確かめると、いつだかに買ってそのままにしてあった例のものがあった。商品名も色名も全く同じそれは、封を切られないままそこに置き去られてあった。

「これ、あげる」

 突きつけるように差し出されたそれを、佑輔は受け取ろうとしない。

「なんでくれるんですか、っていうか、なんで同じの持ってるんですか」

 赤くなった彼の頬は、間をおかずに元の色に戻ろうとしていた。まだ中身の残ったモスコミュールのグラスで、氷が解け崩れるカラン、という音がする。

「たまたま買って、使ってなかったの。ねえ、塗ってみて」

「いや、でも、この一本だけにしようと思ってたんです。さすがに、ちょっと」

「何を今さら。遠慮しないで、ね」

 個室の仕切りがあるとはいえ、煙草とアルコールと汗が混ざったような臭いが、涼々たちの部屋にも入ってきていた。冬とは思えないのぼせるような感覚に、冷たいグラスを傾けると、また頭がぼうっとしてくる。

「じゃあ、わかった。目を閉じて」

 涼々の突飛な提案に、意外にも佑輔は素直に従った。台紙を引き裂くようにしてリップを取り出し、まだどこにも触れていない滑らかな紅色を慎重に繰り出す。炬燵の向こう側に回り、そっと彼の口元に近づけると、彼が呼吸を止めたのがわかった。

「……はい、できた」

 涼々が合図する前に、唇からスティックが離れた瞬間から彼はゆっくりと目を開いていた。あまりに近い距離で目を合わせてしまう前に、涼々は紅い色の引力に逆らって飛びすさった。

 文字通り、夢にまで見た色が、涼々の目の前にあった。酔いと熱気でうるんだ彼の目がきらきらと瞬いている。夢と同じ、と思った自分に、同じどころではない、とすぐさま訂正を求める。自分の想像でしかない夢などよりも、もっと艶やかに、もっと優美に、その色はそこに収まっていた。

 反応に困ってかしばし人形のように固まっていた彼は、ふと自分のスマホを取り出して、内カメラで自分の顔を確認する。その横顔を見つめたまま、涼々は、もう使っちゃったから、と押しつけるように、彼の前の机上にリップクリームを置いた。

 どん、と隣の部屋で誰かが壁にぶつかったような音がして、思わず二人とも身体を引いてそちらを見やる。びっくりしましたね、と彼は苦笑いを浮かべた。

「じゃあこれ、いただきます。ありがとうございます」

 遠慮がちに彼がリップを手に取り、鞄にしまうのを見届けつつ、涼々は会計を頼んだ。店員から佑輔に手渡された伝票をのぞき込み、端数を切り上げて千円札を五枚、彼に差し出す。彼がおとなしく受け取ったのを確認してから、涼々は立ち上がりコートを着た。

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