第20話

 クリニックの受付に座っていると、どうにも眠気が襲ってきて、涼々は軽く頭を振った。昼食の直後かつ、貴重な冬の日差しが受付に降り注ぐ昼下がりは、一日のうちでもっとも眠くなる時間だった。しかも今日は、朝作った弁当を忘れてきてしまい、昼になってから気づいて、慌ててコンビニ弁当を買いに走っただるさもあった。

「1,320円になります」

 伝票が回ってきて、患者の応対をしていれば、まだなんとか眠気を追いやることができる。仕事については、余計なことを考えずに、慣れという惰性に任せるくらいの方が、むしろ正確にこなすことができた。

 眠気の理由ははっきりしていた。ここのところずっと、眠りが浅く、おかしな夢ばかり見るのだ。あの日以来、しばらくはイチゴジャムの夢が続いていたが、最近は赤い花畑だったり、焚火だったりと、どれも突飛で不思議な夢を見るようになった。

 そして、どの夢にも必ず、彼が出てくるのだった。夢の中で見る紅い唇はあれほど鮮やかなのに、目覚めるとなぜかさっぱり忘れてしまっていることも、涼々のストレスを加速させていた。

「痛っ」

 カルテのファイルを閉じようとして、コピー用紙よりもやや厚みのあるカルテの端で、指を切ってしまった。中指の第二関節の近くから、ぷっくりと赤い血が浮いてくる。涼々はしばし痛みも忘れて、夢の記憶を手繰ろうとするかのように、その赤い色を見つめた。

 初め、明るい赤に見えた血は、すぐに黒っぽい本性を現す。切ってしまったのは静脈だったのだろう。自分が見たいのはこれじゃない、と思ってから、はっと我に返る。夢の中ばかりでなく、あろうことか仕事中にまで、あの色を探そうとしている自分を、今すぐにでも張り倒したかった。

 隣の事務員に断って、冷静に絆創膏を取りに立ちながら、アミのメイクを見た日、終わったあとに言われた言葉が思い出される。

『なんかスズ、変だよ。積極的』

 誰もいないバックヤードで、そんなわけない、と無声音で独り言をこぼす。何かに対して積極的など、まして自分から何かを探そうとするなど、自分の辞書には全くない言葉だ。ロボットのような仕事、家、女性。それだけで言い表せてしまうこの生活に、真新しいことなど、何一つ必要としてはいない。絆創膏の個包装紙と剥離紙をひらひらとゴミ箱に落として、指からなおあふれ出ようとする赤い血を閉じ込め、涼々は受付へと戻った。

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