第17話
日曜日の駅前広場は、平日とは全く違った顔を見せていた。制服の学生たちは思い思いの動きを見せ、スーツなどの仕事着ではなくとりどりの服装がひしめいている。基本的に土日は休みで、母から送迎を頼まれでもしない限り駅前には近づかない涼々は、その光景だけで少し疲れてしまうほどだった。
待ち合わせ場所の大きな花時計の前に立ち、周囲を見渡す。近くには落ち合ったばかりのカップルらしき姿があって、思わずそこから数歩離れた。
「お待たせしました」
斜め後ろからかけられた声に振り返ると、スーツを着ていない佑輔がそこにいた。白い細めリブのハイネックニットに、細身のジーンズ、ダークグレーのロングコート。華美ではないが手を抜いている印象でもなく、シンプルに洗練されていた。その服装を新鮮に感じる以上に、彼が自分の意思で選ぶ格好がこれなのだ、とすんなり納得できる。今日はまだリップを塗っていないようだが、これで紅い唇をしていたら、男性にしては小柄な彼は、すれ違いざま女性に見えることも十分にありそうだった。
「いいんじゃない」
口をついて出た言葉に、彼は紅く染まった頬と唇を緩ませる。
「よかった。これでも、かなり、緊張したんです」
「別に、何も変じゃない」
病院の受付なんかをしていると、毎日いろんな人が来て、その中には奇抜な格好の人もいる。だからそれに比べたら、このくらいの中性的な服装はそう珍しいものではない、ということを、涼々はたどたどしく伝えた。
「そういうものなんですね。自分、今は毎日、自分も周りもスーツですし。私服も、スーツとか制服の延長、みたいなのしか持ってなくて」
「なら、買いに行こうか」
自分がショッピングの提案をしていることに驚きつつ、涼々は駅ビルの方を見やる。大きくはないが地域で長く親しまれている五階建てビルは、開店直後から老若男女さまざまな人で賑わっていた。
「いいんですか」
「いいも何も、そのために来たんじゃないの」
大げさに感極まった様子の佑輔の返事を待たず、涼々は入口に向かって歩き出す。すぐに佑輔も追いついてきて、二人並んで自動ドアをくぐった。
久しぶりに来た駅ビルの圧倒的な情報量に、涼々は軽いめまいさえ覚えた。一階はさまざまな食品の匂いが充満している。佑輔に先導されて、アパレル店が多い二階に行くと、若い女性店員がセールを知らせる甲高い声が交錯していた。
佑輔はそういった主張の激しい店ではなく、フロアの奥に広く展開する、カジュアルな服が並ぶ店に吸い込まれていく。レディースとメンズの境目が曖昧で、ゆったりと服が陳列された中を、涼々は彼の半歩後ろをついていった。
「涼々さんとここ歩いてると、なんか自然な感じに見えますよね」
細いボーダー柄のTシャツを手に取って、きょろきょろと周りを見渡しながら、小声で佑輔が言う。
「別に、一人でも変ではないと思うけど」
二人の周囲にいる客は、学生と思しき女性の二人連れ、二十代後半から三十代くらいの女性が一人に男性が二人、といった顔ぶれだ。涼々はむしろ、自分たちの方が浮いている気さえしていた。
「あと、二人でいると、店員さんに話しかけられにくいですよね」
そのメリットには、涼々は黙ってうなずいた。もとより、出勤してしまえば制服に着替える涼々には、私服に対するこだわりはあまりなかった。黒、赤、青のボーダーの色で悩む佑輔を見つめる目が、冷たく見えないように意識する。
「このサイズだったら着れるかな」
「同じデザインでメンズもあるんじゃないの」
別のエリアを視線で示した涼々に、まあそうなんですけど、と佑輔は柔らかく首をひねる。
「せっかく涼々さんに一緒に来てもらったので、レディースを買ってみたいなって」
よし、これにします、と佑輔がレジに持って行ったのは、初めに手に取った赤のボーダー柄だった。売り場に取り残された涼々は図らずも、初めての買い物を見守る母親のような心境になって、会計をする彼の背中をぼんやりと眺めていた。
「プレゼント用ですか? って聞かれたので、ラッピングしてもらっちゃいました」
ほどなく紙袋を提げて戻ってきた佑輔は、今日は自分にプレゼントですけどね、とはにかんでみせる。その子供のような笑みにつられて涼々も、よかったね、と保護者のような少しだけ甘い声で応じた。
「姉へのプレゼント、ってことにすれば一人でも買えそうな気がしてきました」
そう言って店舗を出ていこうとする佑輔についていく涼々の足が、一拍遅れた。半歩後ろの距離を保ちながら、いつの間にかこの外出を楽しもうとしていた自分を、静かに諭す。彼は家族に服を贈るという発想ができる人であって、自分とは近いようで遠い存在なのだった。
二人はさらに上の階に移動し、佑輔の目移りするままに、いくつかの店舗を回遊していく。彼が見る服や雑貨に、涼々も決して興味がないわけではなく、適当に相槌を打った。
唯一、紳士服ブランドの店舗前を通るときだけ、わずかな緊張感が走った。その存在を視界から消し去って、あくまで自然に通り過ぎる。
最上階にあるレストラン街に着いたときには、佑輔の手には、計三つの紙袋があった。ネイビーのワイドパンツと、控えめなヒールのある黒いブーティは、いずれも佑輔が一人で選んだものだった。それらの袋を、カフェレストランの手荷物カゴに慎重に入れる。
佑輔が提案したランチセットを二つオーダーしたあと、彼は少し身を乗り出してきて尋ねた。
「あの、つまらないですか?」
「そんなことないけど」
「じゃあ、お疲れですか?」
すかさず否定した涼々の速さに負けまいとするかのように、彼は間髪入れずに聞いてくる。
「そんなにつまんなそうに見える?」
「……すみません。涼々さん、何も買わないから」
また謝らせてしまった、と涼々は内心で唇を噛む。
「あんまりこういうところ来ないの。買い物もしないし」
これで説明になっただろう、と彼の表情をうかがう。彼は納得するどころか、店内の天井に吊るされた洒落た照明を、その目いっぱいにきらきらと反射させていた。
「じゃあお昼食べたら、涼々さんの行きたいところ行きましょう。ここにフロアマップもありますから、ね」
「だから、行きたいところも特にないんだって」
涼々の静止も聞かず、佑輔はいつの間に取っておいたのか、トートバッグからマップを取り出す。
「ここ、結構なんでもありますから。涼々さん、お休みの日は何してますか?」
早くこの会話が終わってほしくて、周囲をさっと見渡してみても、料理が来る気配は一向になかった。休日の昼時、店は満席で、厨房でも人が慌ただしく動いているのが見える。
「ほとんど家事……だけど、まあ、縫いもの、かな」
諦めて話すと、彼はへええ、とさも驚いたような反応をしてくれる。素直で自然な反応に見えるが、もしかしたら気を遣わせているのかもしれない、という疑念を涼々は拭いきれなかった。
「縫いものって、服とか作るんですか?」
「そんな大層なものじゃない。ポーチとか、そんなもの」
「だったら、ここ、手芸用品の店もありますよ」
ほらここ、と彼の白い指がフロアマップの一カ所を指さす。手荒れ一つない綺麗な手だった。
「生地とか、道具とか、いろいろ置いてるみたいです」
「そういうの、間に合ってるから」
「でも、見るだけでも楽しいですよ」
「いいって言ってるでしょ」
ずっと身を乗り出して話を聞いていた佑輔が、わずかに身体を引いた。隣のテーブルからちらりと向けられた迷惑そうな視線に、思ったよりも声が出ていたことに気づく。
「あなたの行きたいところに行くのが、今日の目的でしょ」
息を大きく吸ってから、諭すようにゆっくりと吐き出す。諭す相手は彼ではなく、むきになってしまった自分自身だった。
「あたしは欲しいものとかないから。今日は一日、あなたにつきあう」
めったに人と目など合わせない涼々だが、このときばかりは、なるべく佑輔の目を見ようと努めた。
「ありがとう、ございます」
佑輔は、理解はしたがどこか納得していない様子で曖昧につぶやいて、マップをバッグにしまった。
ほどなくして、「お待たせしました」と店員の声が降ってきて、豚のソテーとサラダが華やかに盛られたワンプレートのランチが二つ、テーブルに置かれた。すかさず佑輔は、ナイフとフォークを涼々に手渡す。
「じゃあ、いただきます」
いつかの夕飯と同じように、彼は礼儀正しく言ってから、美しくナイフを使い始める。涼々も肉を切って口に運ぶのに集中せざるをえず、二人はほとんど無言でランチを咀嚼した。
「すみません、昼ごはんの直後じゃない方がよかったですね」
一階にあるスターバックス、全面ガラス張りの窓に面したカウンター席。涼々の隣に座った佑輔は、今にもホイップクリームがあふれそうなフラペチーノを手にして、苦笑いを浮かべた。
「別に……あなたの行きたいところ、って言ったし」
涼々の前にも同じものが置かれていて、重厚なホワイトチョコレートに挟まれたベリーソースの層が、冬の低い日差しを受けて少し透き通って見える。駅前広場の通行人で陽光がさえぎられるせいか、佑輔は何度もフラペチーノの写真を撮り直していた。
「よし、撮れた。これ、ずっと憧れてたんです」
「憧れてた?」
「こういうのって、男一人で入るの、意外と勇気いるんですよ」
「ふうん。そういうもの?」
「そういうものです。男友達とかも論外ですし」
一度テーブルにフラペチーノを置き、食事と同じように、いただきます、と彼は手を合わせる。単なる挨拶以上の感慨が込められていることは、隣で見ていた涼々にもわかった。温かいものを持つかのように両手でそっと持ち上げ、勢いよくストローで吸い込もうとして、彼は顔をしかめる。
「全然出てこない」
「ほとんど食べ物だからね」
すぐに食べる気のしない涼々は、するりと席を立ち、プラスプーンを二本持って戻ってくる。すみませんありがとうございます、と彼が受け取るものだから、謝らないの、とまた母親のような気分になって言い聞かせてしまう。
「おいしい?」
慎重に蓋を取って、ストロベリーチップが散らされたクリームを掬う彼の表情をのぞきこんだ。幼い目を丸く見開いてその甘さに驚いたあと、抑えきれない笑みをこぼす。それが返事の代わりだった。
「よかったね」
涼々も蓋を取り、プラカップにスプーンを突き立てる。クリームだけでは到底食べられそうになく、下に沈んだソースとクリームを荒っぽく混ぜた。
少しずつカップの中身を減らしながら、隣で一心不乱に味わう彼の横顔を盗み見る。食事は向かい合わせだったし、隣を歩くのもなんだか遠慮していたから、今まででいちばん近くで、彼の顔を見ていることになる。横から見て初めて、睫毛が長いことに気がついた。横顔であれば男性特有の骨格も気にならないし、メイクの仕方次第では本当に女性に見えそうだった。
さすがに甘さに飽きてきたのか、彼が一旦スプーンから手を放す。その唇の端に、深紅のベリーソースがついていた。ふと、手を伸ばして拭ってやりたい、という思いが頭をかすめて、とっさにスプーンを握った右手を左手で抑え込む。
「どうしました?」
あまりに横顔を見つめられて不審に思ったのか、佑輔が声をかけた。
「ここ、ついてる」
涼々は自分の口元を指さして伝える。彼は唇を軽く手でこすったが、ソースが余計に広がって、唇全体が紅く染まった。
「取れました?」
艶やかな唇のまま、あどけない表情で小首をかしげてみせる彼に、無言で首を横に振る。彼は小さく苦笑して、ちょっとちゃんと落としてきますね、とトイレの方向へ消えていった。
テーブルに残された彼のフラペチーノは、中身が三分の一ほどに減っているのに、まだ綺麗な白と赤の層を保っていた。それをじっと見つめているとどうにも落ち着かなくて、涼々は自分のフラペチーノをせわしなく減らした。
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