第16話

 どこにも寄らずに帰った夜は、母と向かい合って夕飯を食べることになる。仏間の関所を通る必要はなくなるが、涼々の料理に投げつけられる文句を聞きながらの食事も、決して楽しいものではない。ここ最近は真っすぐ帰る日が続いていたが、どんなおかずでも味が薄いと醤油をかける母を止めるのは、もう諦めていた。

 母は最近、食事が終わってもすぐに仏間には行かず、ダイニングテーブルに座ったままで、騒々しいテレビを眺めていた。以前よりも立ち上がるのが億劫になっているのかもしれない。

 ぼんやりしたまま動かない母を横目に、二人分の食器を手早く洗う。急いでいると、どうしても水を派手に使うことになる。しかし水道代を気にしてまで他にやりたいこともない涼々には、とにかくまた何か母が機嫌を損ねる前に、ここを離れることが重要だった。

「あんた」

 ほら来た、と涼々は手を止めずに身構える。一回目は聞こえなかったことにしようと、水道のレバーを最大までひねった。

「あんた、電話」

 負けじと母も声を張り上げてくる。電話と言われても、家の電話は黙りこくっている。ついに幻聴が、などと思い始めたそのとき、涼々の耳がかすかなバイブレーション音をとらえた。

 はっとしてテーブルを振り返ると、置きっぱなしにしていた涼々のスマホが、自らの振動でテーブルの上を滑るように移動しているところだった。画面が上を向いたままのスマホは、どんどん母の目の前に迫っていく。

「誰からだい」

 母が画面をのぞき込もうとする瞬間、涼々は泡を落としただけのびしょ濡れの手で、スマホをひっつかんだ。胸の前でちらりと確認すると、そこには案の定、彼の名前があった。

 追ってくる声にも構わず、二階への階段を一段飛ばしで駆け上がる。部屋に飛び込み、一つ深呼吸をして呼吸を整えてから、濡れたままの手で通話ボタンに触れた。

『あ、よかった、すみません、お忙しいときに』

 なじみのある、と言えるほどには聞き慣れた声に、ほっとしてベッドに座り込む。仕事ではない電話など、涼々には何年かぶりだった。

「別に、忙しくはない。どうしたの」

『あの、実は、涼々さんに、お願いがあって』

「お願い?」

『はい。その、一緒に、出かけてくれませんか』

「ん?」

 最低限の労力で出せる間抜けな声が、涼々の喉から飛び出ていく。

『えっと、あの、自分なりに考えまして。涼々さんみたいに、自分のことをちゃんと受け入れてみようって。自分のなりたい姿、やりたいことを、一度ちゃんとやってみようかな、と』

 彼の言っていることにはおおむね合点がいった。そうしてみたいと思うのは自然なことだ。唯一、涼々さんみたいに、というところが引っ掛かったが、そこに反論している場合ではないことは、涼々にもわかっていた。

「で、あたしは何をすればいいの」

『協力してくれるんですか!』

 声を弾ませる彼のあまりの素直さに、心なしか笑みがこぼれる。

『一緒に来てくれるだけでいいんです。ちょっとだけ、出歩いてみたいだけなので』

 今度の週末、空いてますか、と問われ、予定など今週に限らず全くない涼々は、まあ、と曖昧に肯定する。そうしてあっという間に、待ち合わせの時間と場所が決められ、嵐のような電話は切れた。

 人と出かけるなど、下手をしたら学生時代以来かもしれなかった。なかなか収まらない動悸は、さっき珍しく走ったからなのか、それとも電話そのものに対してなのか。涼々はもう判断するのも面倒になって、放り出してきた台所に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る