第13話

 仕事が休憩時間になりスマホを手に取っても、ラインは間違っても開かない。未読バッジの①を見ると胸が痛くなる。そんな歯の浮くような小説でしか見たことのなかった感覚が自分にもあったことに、この数日、戸惑いと一抹の嫌悪が渦巻いていた。いっそラインそのものをやめてしまおうかとも思ったが、妹からの連絡手段になっているものを断ち切る選択もできなかった。例のアプリならばむしろ常に未読メッセージがあるのが当たり前なのに、どうしてこうも気になるのかわからないまま、涼々はロボットの日々を繰り返していた。

 退勤して、スマホも見ていないのにうつむいたまま下りエレベーターに乗り、荷物か何かのように運ばれていく。だから彼が目の前に乗ってきたことにも気づかなかった。

「木下さん、……涼々さん」

 下の名前が耳に入ってようやく、緩慢に顔を上げる。そこにあった紅い色に、はっと短く息をのんだ。

「すみません、また驚かせてしまいました」

 佑輔は困惑の中にも余裕を感じさせる柔和な笑みで、涼々に会釈する。その目を直視することができずに、涼々は反射的に視線をそらした。薄汚れたエレベーターの壁を見るともなく視界に入れつつ、その隅の方にくっきりと発色している紅色に視線が引っ張られる。仕事を終えて先ほど塗り直したばかりであろう色だった。

「お元気そうで、よかったです」

「あの、返事」

「いいんです、こちらが勝手に心配してただけなので」

 不安定な揺れとともに、エレベーターが一階に着く。律儀に開ボタンを押してくれる佑輔を置いて箱を出てから、ねえ、と振り返った。

「どうしてあたしの話なんて聞きたいの」

 純粋な疑問だけで問うつもりだったのに、拒絶するような冷たさが、喉の奥を震わせた低い声となって出ていく。

 涼々の真横に並んだ佑輔は、茶色がかった瞳をまっすぐ涼々に向けた。

「強いから、ですかね」

 これまであまり意識することのなかった身長差だが、近くに立たれたからなのか、佑輔に見下ろされているように感じる。

「涼々さんって、自分をちゃんと受け入れてるというか、しっかり向き合ってるというか。だからその、どうやったらそうなれるのかな、と思って」

 よどみなく言い切って、佑輔は涼々の返事を待つように少し首をかしげる。言われたことのない言葉の連続に、涼々は視線を泳がせることしかできなかった。返事にならない短い吐息が狭いエレベーターホールを満たす。

 数秒の間があって、エレベーターがまた誰かを運んできた電子音を合図に、では、と佑輔は駅の方角へ去っていく。後を追うように道路に出て見渡しても、すでにネイビーのスーツの後ろ姿は行き交う人々に紛れていた。涼々は駅に背を向けて、とぼとぼと重い足取りで駐車場に向かった。車を出して、暖房の温度を上げる。

 強いから。そんなことを言われたのは初めてだった。もっとも、他人が自分をどう思っているかなど、聞く機会さえこれまでなかったから、何かと比べることもできない。

 ふと顔を上げ、信号が青に変わったことに気づいて慌ててアクセルを踏み込む。これと同じだ、と自嘲のような息を吐き出す。目の前の状況に身を任せていただけで、決して強さなどではない。なのに彼は涼々を強いと言った。丁寧な人だとは思っていたけれど、所詮は他人、数回会っただけでわかったように語られるのは、やはり不愉快だった。

 慣れた道の運転は上の空でもできてしまう。彼の言葉に囚われたまま涼々はハンドルを操った。

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