第12話

 佑輔からのラインが来ていたのは、その直後のことだった。

 身支度を整えてもなお残る気だるい余韻の中、何気なく開いたスマホの通知にその名前を見つけて、酔いのようなほとぼりは一気に醒めた。何かあったのかと問うアミには適当に返事をして、涼々はそそくさとアミの家を後にした。

 暖房もつけずにしばらく車を走らせてから、何も急ぐ必要はなかったことに気づく。メッセージ内容はあくまで相談事であって、さらに彼らしく幾重にも、急がないのでお気遣いなく、という旨の言葉が添えられていた。

 信号待ちの間、冷えた手を片方ずつハンドルから離してポケットで暖める。右手の指先に固いプラスチックが触れて、まさか、彼のことを考えたから連絡が来たわけでもなし、と馬鹿げた想像をしてしまう。

 家に着くと母の関所も足早に押し通り、自室に着いてようやく、メッセージを熟読する。普段、事務連絡のような言葉だけで生活している涼々にとっては、ラインの丁寧なメッセージさえも、手書きの封書を開くような緊張感があった。

『こんばんは。お忙しいところすみません。涼々さんに聞いてみたいことがあって、連絡しました。

 実は今、先日お話しした、姉へのカミングアウトのこと、本気で考えてみようと思っているんです。それで、そういうことについて、おすすめの本や情報源などがあれば、教えていただけないでしょうか。

 急ぎませんので、お時間のあるときで大丈夫です。』

 きちんと改行のほどこされた長文は、ビジネス文書にも見えるが、やっぱりどこか手紙のようで、読み終えた涼々は長い吐息をついた。暖房もつけずに座り込んでいたことに気づき、コートを脱いでエアコンのリモコンを探す。

 部屋着に着替えてベッドに横になっても、身体のどこかに力が入っているような気がした。いろんなことが同時に起こったあの日から数日、ようやく元の生活が戻ってきたはずなのに、今また彼という異分子が、涼々の閉じた日常をこじ開けてくる。

 メッセージを凝視しては、適当なニュースやSNSを開き、またメッセージに戻る。試験の解答でもないのに、どう返信していいものか考えあぐねて、また別の画面を開く。相手の顔を知らない分、試験の方がまだよっぽどましだった。

 そもそも、聞く相手が間違っている。涼々はカミングアウトなんて考えたこともなければ、これほどまでの丁寧さに応える言葉など、持ち合わせていないのだ。そう開き直ってしまうと、固まっていた指が画面の上を滑り始める。

『ごめん。そういうこと考えたことがないから、わからないです』

 一息に打ち込み、送信してすぐにスマホを放り出した。デスクに座り、作業途中だったパッチワークに戻る。黙々と布地を測り、切り、縫い合わせる。アミからもらった服の中には、パッチワークに向かない、てろてろした素材のものもあったが、構わずにつなぎ合わせた。

 やや急ぎ気味に、それでも曲がらないよう真っすぐに、手でざくざくと縫い進めていく。と、しばらく針を替えていなかったからか、単に布地と相性が悪いのか、針が全く滑らなくなった。ため息をついて布を机に放り出す。椅子の背に身体を投げ出すように預けた。

 天井を見つめながら、ふと気づくと彼のことを、彼に送った言葉のことを考えていた。二、三回会っただけの人間に聞くことじゃない、と思う反面、そうするしかなかったこともよくわかっていた。カミングアウトをしたいという気持ちは理解できなくても、藁にもすがるような痛々しさには覚えがあった。涼々など藁一本にもなれるかどうかわからないのに、それでも彼は涼々に聞いたのだ。

 ベッドに埋もれていたスマホを探し当て、もう一度ラインを開き直す。自分に何か言えるとしたら、と頭の中をひっかきまわして、指先に触れたものを引っ張り出す。返事も来ていないのに追伸をするなどめったにしたことがなく、どう切り出したものかと少し迷った。

『一つだけ。いろんな情報があると思うけど、自分が納得できるものを選べばいいと思います』

 打ち込んでから、二、三度読み返して、送信ボタンをタップする。送信を示す紙飛行機のアイコンがやけに印象に残った。

 シャワーを浴びて戻ってきてもまだ返信はなく、涼々はそわそわと何度もラインを開く。既読の有無などどうでもいいと思っていたのに、今は気になって仕方がない。一向に既読はつかず、自分の返信に愛想をつかされたわけではない、と自分に言い聞かせて寝る支度を整えた。

 きっと今日は忙しいのだ、と諦めてベッドに入ったとき、待ちかねていた通知音が鳴った。一秒とおかずにメッセージを開く。

『涼々さんらしいですね。ありがとうございます。考えてみます。』

 自分らしい、の意味をはかりかねたけれど、何の役にも立たなかったわけではないらしいことに、ひとまず安堵する。そのことを文字にしようと入力していると、続けて佑輔からのメッセージが届いた。

『自分ばかり相談に乗っていただいてすみません。今度、涼々さんのお話も聞かせてください』

 まただ、と涼々は姿の見えない彼に対して身構える。バックキーを長押しして打ちかけた言葉を消した。自分にも話を求めてくるのは、彼なりの気遣いのつもりなのだろうか。あるいは、同じマイノリティである涼々の話を聞くことで、参考にしたい、という心づもりなのかもしれない。いずれにせよ、単なる俗っぽい好奇心ではないことは感じられた。

 もう寝たことにしてしまおう、と深く布団にもぐり込む。自分の話に価値があるとは思えなかったし、そもそも自分の話とは何を指すのかがわからなかった。ここ数年は機械的な日々の繰り返しだし、その前だってよくある話の寄せ集めみたいなものだ。相談したい悩みも、語りたい過去もない。このロボットのような毎日において佑輔は、突然現れた人間だった。もとより、ロボットの手に負える相手ではない。

 目を閉じて、意識を眠りに委ねることに集中する。ロボットならば、スイッチを切るように簡単に眠れたらいいのに、と思った。それでもいつしか落ちた眠りで見た夢は、機械部品のような一面の灰色の中、紅い色だけが鮮やかだった気がした。

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