第10話
ただいま、と珍しくつぶやいて玄関をくぐる。彼に感化されたか、と自嘲をこぼすやいなや、母の大声が飛んできた。
「あんた! どこをほっつき歩いてたんだい」
足を半ば引きずるようにして、母なりの全速力で廊下を向かってくる姿には、ちょっとした迫力があった。それでも、今さら自分の心配なわけがない、と涼々は動じることなく、フラットパンプスを脱ぎそろえる。
「友梨ちゃんが、友梨ちゃんに子供ができたって。あんたからもお父さんにお願いしな」
玄関を上がるや否や腕をつかまれ、この老体のどこに、と思うほどの力で引っ張られる。ちょっと待って、ととっさに発した言葉は、母を制するためだけではない気がした。結婚して1年、至って自然なことなのに、事実が身体に浸透してこない。
「元気な子が産まれますようにって、お願いするんだよ。あんたにはそれくらいしかできないんだから」
母が引っ張るのは、例の仏間へ連れていくためらしかった。見守ってくださいならまだわかるが、別に父は神様でも仏様でもないのだ。ご利益があるとは思えないのだが、反論するのも面倒で、おとなしく引きずられた。
仏壇に形だけ手を合わせて、ふと隣を見ると、母は皺だらけの手をこすり合わせて、例の念仏か何かを唱えていた。目を閉じていることを幸いに、音もなく仏間を離れる。
2階への階段を上りながら、友梨が妊娠、と何度かつぶやいてみた。現実感は増すどころか、妹の存在ごと遠のいていく気がした。
自室のデスクに腰を下ろしたところで、あのときも自分はここに座っていた、と記憶がよみがえる。お姉ちゃん、と部屋の扉をノックしてきた友梨は、まだ高校の制服を着ていた。
『今ね、彼氏がいるんだけど』
大学の夏休みで帰省した涼々を心待ちにしていたのか、到着したその日の晩に友梨が持ち掛けてきた相談は、彼氏と関係を持つことが怖い、といったものだった。それを聞いたときの、心配と痛みと期待と、いろんなものが入り混じったおかしな高揚感まで、鮮明に思い出せる。この子も、自分と同じなのかもしれないと思った。だから答えた。
『無理なことは、無理しなくてもいいんじゃないの』
折しも涼々自身、大学生活の後半に入って、ようやくその結論にたどり着いた頃だった。自分が友梨と同じ制服を着ていたときには、手芸部の先輩に抱く感情を押しつぶそうと必死になっていた。妹には、そんな回り道をしてほしくなかったから、切実に伝えたつもりだった。
友梨は、無理をしたのだろうか。それとも、自ら望んでしたことなのだろうか。あの制服の友梨と、男の裸体のイメージが、どうやっても結びつかないまま浮かんでは消える。
通勤バッグに入れたままだったスマホを取り出して、アプリの連絡先一覧を無意味にスワイプしてみる。何度となく顔を合わせ、身体を重ねた女たちでも、こんなときに連絡するような相手ではない。
佑輔ならこんなとき、どう思うのだろうか。姉がいると言っていたが、結婚だなんだと言われたとしたら、落ち着いていられるのだろうか。さっき初めてまともに話した人間にこんなことを思うなんて、と自分の動揺の度合いに驚きつつ、ラインを起動する。
一番上には、彼からの折り目正しいお礼のメッセージが来ていた。そしてそのすぐ下、どこかの花畑に立つロングヘアの後ろ姿のアイコンは、紛れもなく妹のものだった。未読3件。時間は彼といたときだ。
内容がわかりきっているものを開く気にもなれず、そのままスマホをベッドへ放り投げようとして、もう一度だけ、佑輔からのメッセージを開いた。
『今日は、無理を言っておつきあいいただいて、ありがとうございました。またお会いできれば嬉しいです』
社交辞令の薄っぺらさも、嫌味なわざとらしさもない、素直な文面だった。よほどしっかりした家で育ったのだろうか、そういえば、食べる仕草もどこか上品だった。ただ涼々は、そういう人ほど、自らの違和感と向き合うのが難しいことも多いとよく知っている。
丁寧に並べられた言葉は、涼々に人としての最低限の礼儀を思い出させた。妹のメッセージを開き、おめでとう、と送信する。内心はまだざわついて、祝いの言葉にはほど遠かったが、これをしないと、佑輔に合わせる顔がない気がした。わずか数秒の指の操作だったが、一仕事終えたような疲労感に包まれて、涼々は今度こそスマホを放り投げ、そのまま自分もベッドに倒れ込んだ。
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