第9話
2人が行きついたのは、駅からもほど近いファミレスだった。夕飯時の店内は、家族連れや学生と思しき若者たちで賑わっている。誰もが自分たちの会話に夢中で、ほどよく騒がしい店内は、あまり聞かれたくない話をするのにも向いていた。
注文を済ませ、すかさず彼は席を立つ。水の入ったグラスを2つ持って帰ってくると、それを置いて座るなり、涼々に深々と頭を下げた。
「昨日は、本当に、ありがとうございました」
別に何も、と涼々が否定しても、彼はなかなか頭を上げない。変に見られるから、と言うとようやく身体を起こしたが、それでもまだ足りないとばかりに言葉を継ぐ。暖かい室内に入ったこともあるのか、先ほどのビルの外とはまた別人のようだった。
「人に話を聞いてもらったの、初めてで。自分でも、整理できたというか。やっぱり、ネットとかだけだと、現実感がなくて」
「そう」
店のざわめきに紛れまいと一生懸命に話す彼の言葉を右から左に聞き流して、涼々は生返事を返す。照明の下で改めて見ると、今日の彼の唇は、初めて見たときと同じ色をしていた。店の暖房も手伝ってか、頬もわずかに赤く染まっている。
安価なリゾットが2つ運ばれてきて、彼はいただきます、と手を合わせた。涼々も差し出されたスプーンを受け取って、火傷しそうな皿をつつく。
「あれを拾ってもらったのが木下さんで、本当によかったです。他の人だったら、どう思われるかわからないし、そもそも返ってこないでしょうし」
彼は休みなくスプーンを動かしながらも、沈黙が重くなりすぎる前に器用に話を続けていた。咀嚼したり話したり、紅い唇がせわしなく動くのを、涼々は眺めるともなく見つめていた。
「……どうかしましたか?」
ほとんどリゾットに手をつけない涼々に、彼が怪訝そうに尋ねる。
「あんまり、おなかすいてなかったみたい」
ああ、と彼は素直に納得する。全くの嘘ではないが、理由はそれだけではなかった。なにしろ人とまともに向き合って食事をするなど久しぶりだし、それで目の前においしそうに食べる唇を見せつけられたら、見つめるなという方が難しかった。
皿を空け、水のグラスも空にして、彼は何気ない調子で言った。
「前までは、こんなこと絶対に考えなかったんですけど、いつかは、姉にもちゃんと言えるのかな、なんて思えたんです」
ガチャン、と音を立てて、ようやくまともにリゾットを食べようとしていた涼々の手から、スプーンが滑り落ちる。すぐさま店員がやってきてスプーンを拾い、服の心配をして去っていくのを、涼々はどこか現実感なくぼんやりと見ていた。
大丈夫でしたか、と気遣う言葉には答えず、いちばん聞きたいことを尋ねる。
「家族と、仲いいの」
たった一言だけの質問なのに、口の中がひどく渇いて、涼々はグラスの水を噛むように飲み込んだ。
ちゃんと言う、とはつまり、カミングアウトのことを指すのだろう。それを前向きに語ろうとすることもだが、涼々を何より動揺させているのは、その最優先の相手として姉が挙げられたことだった。
彼はテーブルに落ちたグラスの結露を紙ナプキンで拭き取りながら、こともなげに答えた。
「いいと思いますよ。母はいわゆる肝っ玉母ちゃん、みたいな感じで、よく電話しますし、姉はよく泊まりに来ます、だいたいが酔っぱらったあとですけど」
車で30分ほどの隣の市に姉はいるのだという。
「すみません、こんな話、つまらないですよね」
何も言わない涼々の顔色をうかがう彼に、そんなことない、と首を振る。涼々はリゾットを少し口にしてみたものの、やはり空腹感はやって来ず、なんとか飲み下そうとしていた。
「あの、涼々さんのご家族、とかは」
遠慮がちに言葉を切りながらの問いに、水で流し込んで答える。
「母親と、妹。結婚して出てったけど」
「そうなんですね」
ぶっきらぼうな声ににじんだ嫌悪を敏感に感じ取ってか、彼はそれ以上家族については尋ねてこなかった。空になった涼々のグラスも持って立ち上がる。水を取りに行くその背中を見て、ようやく昨晩聞いた、佑輔という名前を思い出した。
水を満たしたグラスを持って戻ってくると、彼は歩いている間に台詞を考えたのか、少し芝居かかった滑らかさで口を開いた。
「あの、自分ばっかり話してたので、涼々さんの話も聞かせてください。その、自分でよければ」
そう言って、さも興味がありそうに、前のめりになってテーブルの上で手を組む。
「話って」
「だから、例えば……」
佑輔が言い終わる前に店員が来て、彼の空いた皿を下げた。涼々の皿にもちらりと目をやったが、ほんの少し目を合わせる、それだけのことがおっくうで、三分の二ほどが残ったリゾットの皿は取り残された。
「例えば、何?」
「そうです、だから、例えば、お仕事とか、……ビアンとして、とか」
佑輔は声のトーンを落として付け加えてから、嫌だったらすみません、と早口で言い足す。まだ謝罪を重ねようとするのを制して涼々は言った。
「別に、話すことは何もない」
そうですか、と少しうつむく佑輔を見て、涼々はしまった、と思う。彼と話していると、自分の物言いは世間一般から見てきついものだ、ということを思い知る。それとも、彼が繊細すぎるだけなのだろうか。一般などというものにとうの昔に別れを告げた涼々にはわからなかった。
無言で互いに水を飲み干して、二つのグラスが空になったのを合図に、佑輔の方から行きましょうか、と声がかかる。涼々も立ち上がると、佑輔は素早く伝票を引き寄せた。
「今日は、ごちそうさせてください」
「ちょっと、そんなの」
手ごろなチェーン店とはいえ、他人に払わせるのは気が引けた。お手、をするように差し出した涼々の手を、佑輔は困り顔で見るものの、そこに伝票を置こうとはしない。通路に半歩出てにらみ合っている二人を、店員が邪魔そうに見て通り過ぎた。
「男におごられるなんて……あ、ごめん」
何の気なしに飛び出た言葉を押し込むように、口に手を当てる。少し高い位置にある彼の顔を見ると、なぜか白い歯を見せて微笑んでいた。
「ありがとうございます、気を遣っていただいて」
怒るか泣くか、そういった反応を覚悟していた涼々は、重ねようとしていた謝罪の行き場をなくして縮こまることしかできなかった。
「でも今日は、男としてじゃなくて、一人の人間として、ごちそうさせてください。拾っていただいたお礼ですから」
爽やかにそう言い切ると、佑輔はすたすたと店の出口へ歩き出す。またしても涼々はその背中を追う羽目になった。その背中はやはり線は細いけれど、それでも涼々が見慣れているものよりは確実に広く大きかった。
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