第8話
窓口から人が引いた隙に、ポケットに手を入れて中を探っては、眠気を振り払うように頭を振る。これを今朝から何度か繰り返してしまっていた。そこに入れていたリップは昨日返したのに、癖だけがなかなか抜けてくれない。
昨晩、やや曲がってしまった駐車にも構わずに玄関に飛び込むと、自宅は恐ろしいほどに静かだった。母はすでに眠っており、夕飯を食べた形跡だけが涼々を出迎えた。そして今朝からは、録画した番組を繰り返し再生しているかのように、前日までと何も変わらない時間をなぞっている。朝食、自分の弁当と母の夕飯の用意、そしてロボット。彼と話したことは幻か何かか、と思ってしまいそうになる。しかしポケットで空を切る手が、あれが幻ではなかったことのかすかな証だった。
昼になりバックヤードに戻った涼々は、いつものようにスマホを手に取る。見慣れない通知アイコンをタップすると、例の彼からの折り目正しいメッセージが表示された。
『昨日は本当にありがとうございました。また何かの機会に、お話できれば嬉しいです』
あれは社交辞令ではなかったのか、と涼々は面食らって、スマホをバッグに投げ入れるように戻し、弁当を取り出す。
最初の就職以降、何度か職場を変えてきたが、どこで働いていても涼々の昼食は弁当だった。たまに作る余裕のなかったときは、朝の行きがけにコンビニに寄る。何の刺激も楽しみもないが、涼々はただ平穏に日々を過ごせればそれでよかった。
そう、昨晩のあれはどう考えても話しすぎだった、と涼々は冷ややかに振り返っていた。一度会ってみるという目的は果たされ、推測もおおむね当たっていたことがわかった、それで十分だ。
定時に仕事を終え、ビルのエレベーターでまたスマホをチェックする。今日は着信も約束もない。読み飽きた本をめくるような、心躍ることも未知への不安もない日々に戻っていることに、ふっと小さいため息が漏れた。
ややうつむき加減のままエレベーターを降り、外気に一つ身震いする。何もないポケットに手を入れ、もう中を探ることもせず駐車場に向かって歩き出した。と、急に行く手が塞がれ、聞き覚えのある声が降ってくる。
「ごめんなさい」
昨日ここで聞いたのと同じ、彼の声。突然のことに飛び上がるように二、三歩後ずさると、そこには眉をハの字に曲げた彼の顔があった。とっさに名前が出てこずに、あなた、と無難な言葉がこぼれる。
「すみません、驚かせるつもりはなかったんですけど、つい」
はあ、と吐息とも返事ともつかない声とともに、昨日の自分もこうだったのだと、涼々は改めて反省する。同時に、何のための反省なのだと、一歩も二歩も引いて見つめる自分がいた。
真っすぐに見つめてくる彼の瞳を受け止めかねて、顔のあたりをぼんやりと見返す。2人に大きな身長差はなく、何も考えずに目を向けるだけで自然とそうなった。
「話が、できたら、と思って」
「何を?」
「何をって、その、いろいろ……」
彼は叱られた子供のように、目に見えて萎れてしまう。昨日までは女の子みたいだと思っていたのに、今の彼は少年の顔を見せていた。人間が単なる記号になって久しい涼々にとっては、これが同じ人間の顔であることが物珍しく映る。
まじまじと彼を見つめる涼々と、その視線に緊張してしまったのか、口を開きかねている彼との間に、しばし膠着した時間が流れる。
「えっと、それで、もし、できれば、相談を」
「それ、長くなる?」
嫌味を込めたつもりはないのに、発した自分でもはっきりとわかるほど険のある声に、彼がまた怯えた目をする。
「いやあの、そういう意味じゃなくてね」
慌てて取りなしても、彼は警戒を解こうとしない。
「迷惑じゃ、ないですか」
「そんなこと言ってない」
「だって、返信が」
なかったから、まで言い切る前に、彼の言葉は尻すぼみになってしまった。なるほど、と涼々は一人納得する。本来ならば涼々自身も、返信一つの有無を気にする方が多数派と言える世代だった。
彼をまた傷つけないよう、それとわからないほどの短いため息をつく。こんなふうに縋ろうとする人を、見たことがないわけではなかった。そして都会にいた頃には、きっと自分はこう言っていたはずだった。
「じゃあ、どこか夕飯でも食べに行く?」
いいんですか、と不安げな表情を崩さない彼を置いて、涼々はすたすたと歩き出す。同情、と呼べるほどの情緒はなく、今にもまた泣き出しそうな彼に押し切られたのだと、涼々は自分に言い訳を重ねた。
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