第7話
自動販売機からペットボトルが落ちるガコン、という音が、遠い喧騒に混じって響く。駅から少し離れた、公園とも呼べない緑地帯の片隅。とっくに日は沈んでいて、街灯と自販機が闇に浮かび上がっている。涼々は今年も売られ始めたほっとレモンを両手に持ち、片方をベンチに座っている彼に差し出した。か細い声で礼を言った彼の目はまだ少し赤い。ベンチの両端に座った2人の間に沈黙が居座る。
あまりにも予想外の展開に、涼々はカミングアウトしたことを後悔する余裕もなく、うろたえるばかりだった。とりあえず泣かないで、と二言三言なだめてはみたものの、彼は自分でもどうすることもできないようだった。とにかく場所を変えようと、駅周辺にあって落ち着いたところを探した結果、ここしか選択肢がなかったのだ。
互いに無言のままで、ペットボトルの中身だけを減らしてゆく。涼々が半分ほど飲み終わったところで、傍らで深い吐息が聞こえた。空になったペットボトルのキャップを閉め、身体ごとうつむいたままで、彼はぽつぽつと語り始める。
「あの」
「うん」
「前に、車の保険の仕事してたんですけど」
「うん」
「……過失割合って知ってますか」
「事故の?」
「そうです。ジュウゼロとか、ナナサンとかの」
「知ってる」
よかった、と大げさに胸をなでおろす彼から、涼々はなぜか離れることができなかった。自分が泣かせたのだから最後まで聞こう、そんな義務感にも似たものも少しあったかもしれない。左手首の腕時計を覆い隠すように、右手で手首を握り込む。
「それで、あるとき、ふと思ったんです。自分は、10:0の男じゃないって」
「ふうん」
「なんでそう思ったのか、ぜんぜんわからなくて。でも、一度そう思ってしまったら、もうそこから離れられなくて」
落ち着きを取り戻していた彼の声が、また少し震えた。視線を向けることなく、また一口、ペットボトルを口に含んで待つ。平静を保とう、そんなふうに考える自分がいることに少し驚いた。
「自分、小さい頃に父が亡くなってるんですけど、母と姉と普通に楽しく暮らしてて。でもこうなってみたら、やっぱり家庭環境の問題とかあるのかなとか、考えちゃったりして。男性が好きってわけでもないし、テレビに出てるオネエタレントみたいになりたいわけでもなくて、じゃあなんなんだろうってどんどんわからなくなって」
他人の身の上話、ましてやこちら側の人間が一度は通る道のありふれた話など、普段の涼々ならとっくに興味を失っていた。それでも、堰を切ったように話し続ける彼を止めようとは思わなかった。
「それでネットでたくさん調べて、やっと、Xジェンダーとか、ノンバイナリーとかっていうのを見つけて」
「そうだね」
「やっぱり、そうなんですかね」
ぱっと身体を涼々に向けた彼は、涼々の顔に答えが書いてあるとでもいうように、じっと目を見つめてくる。声に気圧されて一瞬目を合わせてしまったことを後悔した。
「さあ。それはあなたが決めることだから」
冷たい態度をとったつもりはなかったが、わかりやすく肩を落とす彼を見ると、感覚を失って久しい部分がちくりと痛む。
「それで、あの、リップなんですけど、ほんとは姉のなんです。うちに忘れて行ったのを、つい持ってきちゃって。使ってみたい、って」
「そっか」
「スカートはいたりするのは、なんか違うなって思ってたんですけど、ちょっとメイクする気分というか、これくらいがちょうどよかったんです」
「なるほどね」
「ほんとに、届けていただいて、ありがとうございました。落としたときにもう、諦めてたので。それに、話も聞いてもらっちゃって」
「別に」
頭を下げた彼の表情がだいぶ晴れていたのを見て、涼々は立ち上がる。一カ月分の会話を使いきったような徒労感があった。
「あの」
彼に呼び止められ、ベンチを見下ろす格好になる。
「なんですか」
「また、会えますか」
がば、と立ち上がりざま、涼々に向かって前のめりに彼は訴えた。
「はい?」
「その、迷惑だったらすみません、けど、こんな話ができる人って、なかなか、いないので、できれば、と、思って」
「別に、迷惑ではないけど」
ビルで声をかけたときと同じく怯えて揺れていた彼の目が、また少し光を帯びる。忙しい人だ、と涼々は異国の人でも見ているかのようにぼんやりと思った。
「じゃあ、その、連絡先とか、お伺いしても」
おずおずとスマホを取り出す彼に倣って、涼々もバッグを開く。
「泰と言います。泰佑輔です。あのビルの四階の不動産で働いてます」
彼は慣れた手つきで、ラインのQRコード画面を差し出してくる。涼々も普段使わないラインを起動したが、目的の画面をなかなか探し出せない。
「すごいね、最近の若い人は」
「いや、若くないですよ、もう来年には30です」
え、と涼々は手を止めて、佑輔の顔をまじまじと見つめる。紅の似合う白い顔は、童顔なのだろう、とても自分の一つ下には見えなかった。
「スマホ、借りてもいいですか」
見かねた佑輔に素直にスマホを手渡すと、ものの数秒で返ってくる。画面には、妹や顔の出てこない知り合いたちの名前に交じって、泰佑輔と表示されていた。
「木下、涼々さん」
画面から涼々に目を移して、佑輔は涼々の存在を噛みしめるように、表示された名前を読み上げる。フルネームで、しかも男性の声で呼ばれることなどめったにないせいか、妙な居心地の悪さを覚えた。
「今日は本当に、ありがとうございました」
では、と佑輔は最後まで礼儀正しく、頭を下げて去ってゆく。その後ろ姿は、駅にあふれているサラリーマンたちとなんら変わりなくて、今の今まで話をしていたことが夢だったかのように思えてくる。
ふと腕時計に目をやると、誰かの家に寄って帰る普段の時間を一時間以上過ぎていた。ラインの画面になったままのスマホを慌てて叩き、母からの着信がないことを確かめる。遅くなるとあらかじめ告げてきたことを思い出し、胸をなでおろす。今朝のことをひどく遠い昔に感じながら、涼々は小走りで駐車場へと向かった。
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