第6話
ビルの一階エントランスで震えている涼々を、エレベーターから降りてくる人たちが不審そうに見ながら通り過ぎていく。扉が開く一瞬だけ、上から運ばれてきた暖かい空気が流れ込んでくるが、次の瞬間にはもう、冷たい風と視線にさらされる。すっかり冷えきった指先をこすり合わせながら、涼々はまた少し顔を上げて出てきた人の顔を盗み見た。
今夜は遅くなる、と断りを入れてきたものの、誰かの家に寄って帰る日よりはまだまだ早い時間だった。予定を告げたことがそんなに珍しかったのか、ぎょろりと動いた朝の母の目つきを思い出す。空振りのまま帰宅してもう一度あの目で見られることは、できるなら避けたかった。
また一人、スーツを着た男性が通り過ぎていく。鞄、体型、髪型、顔。あらゆる要素を、記憶にある彼と照合しようとする。だが、肝心の彼の姿をはっきりと思い描くことができない。あの紅色だけは、わざわざポケットに入っているリップを見なくても鮮明に思い出せるのに、そのほかの部分はぼやけてしまっているようだった。
もしかしたら、もう通り過ぎてしまったのかもしれない。あの日の朝、エレベーターでリップを落としてしまってそれっきり、もうあの色を使っていないのだとしたら、彼に気づくことは難しい。そう思い始めた頃、彼が涼々の視界に飛び込んできた。
涼々に彼だと気づかせた色は、紅ではなく白だった。きっとこの肌にはあの紅が映えると、一目でわかる。それほど高くない身長も、書類で少し膨れている鞄も、彼が彼であることの補強くらいにはなったものの、確信は最初からあった。
「あの」
通り道と視界をまとめてふさぐように飛び出す。あのとき以来、二度目に見つめた彼の顔は、驚きと少しばかりの恐怖で目を見開いていた。
「これ、落としましたよね」
戸惑う時間さえ与えずに、ポケットから取り出したリップを押しつけるように差し出す。一歩下がった彼を見てようやく、涼々は自分の不手際に気づいた。
綺麗な色でした、女の子みたいに、いやそんな言葉なんて意味のないくらいに。勝手にあふれようとする言葉を押しとどめるのが精一杯で、蛇ににらまれた蛙のように縮こまっている彼を気遣う台詞など微塵も出てこない。結果、無言でにらみつける格好になってしまい、ますます彼は目に怯えた色を浮かべる。
ややあって、蚊の鳴くような声がした。
「ごめんなさい」
聞こえた声を涼々が頭の中で反芻し、ようやく言葉が像を結んだときには、彼は早足でその場を立ち去ろうとしていた。声と表情に似合わぬ乱暴さで涼々の手からリップをつかみ取り、前のめりに歩いていく。キャメルのコートを羽織ったその背中は、一人のサラリーマンのものにしてはあまりにも頼りなかった。
「待って」
そんなに大きな声で呼び止めたわけではないのに、エントランスに声が反響して、壊れそうな背中がびくりと震える。
礼を言ってほしいとか、そういうことではない。ただ、彼が謝ったことが気になった。誰にも謝る必要なんてないのに、どうしてそんな言葉が出てきたのか。疑問というよりも、やるせない苛立ちに近かったのかもしれない。
だから、あなたは何も悪くない、と伝えるはずだった。その一心が、すっかり錆びついている涼々のコミュニケーション回路を通って、とんでもない言葉に変換されて飛び出ていく。
「あたし、ビアンなんだ」
仲間内以外では、人生初のカミングアウトかもしれなかった。こんなところでそれをすることになるとは、と冷静に見つめている自分もいる。かろうじて、当事者がよく用いる呼称を使い、これが通じるならば、という計算をしてはいたが、計算というよりも博打の方が近かった。
中途半端に振り返った彼の目が、じわりと水滴を帯びていく。なんで、と涼々の頭に疑問符が浮かんだ次の瞬間にはもう、彼の目から一滴の涙がこぼれ落ちていた。
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