第5話
そのあともしばらく、リップは涼々の視界と意識の片隅にあり続けた。肌身離さず持ち歩くのは、いつか本人に出会ったら返すため、と誰にともなく言い訳をしていた。そのくせ、彼を探すための努力は何一つしなかった。いつもと同じ時間に出勤し、同じ仕事をして、同じ道を帰る。それで出会ったのだから、何も変えずにいればいい、とどこかで楽観的に考えていたのかもしれない。
一度、鏡の前に立ったこともあった。母が寝静まったあと、洗面台の電気だけをつけて、不気味な照明の中で一人、蓋を開けた。一応、表面をティッシュでふき取る。そうして口元まで持って行ったが、使うことはできなかった。普段化粧というものをしない顔に、何か色を乗せるのは、自分がしていいことではない気がした。そこらの石ころに色を塗ってインテリアとして売るような、詐欺めいた感じがあった。
なぜ彼はあんなにも、この色を自分のものにできるのだろう。化粧なんてしていなくても、彼自身の唇の色であるかのようになじんでいた。コンビニでも見かける量販品ではあるが、このリップは紛れもなく、彼のための色なのだ。
ほどなく、通勤にトレンチコートを着る時期になってからは、常にポケットにリップがあった。信号やエレベーターを待っているとき、手を入れてそこにあることを確認しては、ポケットの中で蓋を開け閉めする。パチリとはまる感覚はだんだんと癖になっていった。
今晩もまた、涼々はアミの部屋の前に立っていた。鍵が開くのを待つ間、どこからか枯れ葉を舞い上げてきた風が吹き抜ける。かじかむ手を思わずポケットに入れると、お守りのように常にそこにあるリップに触れるのだった。
「寒いから早くドア閉めて」
できる限り外気を入れまいと、細く扉を開けたアミが不機嫌ともとれる声で急かす。古いアパートの鉄の扉は、自重で大げさな音を立てて閉まった。
スーパーで全品二割引だったパンが入った袋を差し出すと、アミはがさがさと中を物色する。狭い廊下兼キッチンをすれ違ってたどり着いたリビングは床が見えず、涼々は座るのを諦めた。
「これ、こないだので作ったけど」
持ってきた紙袋から、色とりどりのポーチやペンケースなどを取り出す。大きめの手提げバッグは端切れのパッチワークで作ったものだ。パン選びに余念のないアミからは、そこおいといて、という生返事が返ってくる。机の上の文房具やら化粧品やらをまとめて押しやって、無造作に布たちを並べた。
「また職場とかで配っていい?」
ようやくパンを電子レンジにかけたアミは、器用にハート型のクッションを引っ張り出して座る。
「好きにすれば。出所は言わない約束」
「わかってるって」
涼々が作ってきたもののうち、アミ自身が使うほかは、次にアミの家を訪れるときにはすっかりなくなっている。ここに置きっぱなしのまま忘れられ、そのうち他の女性が興味を示して持っていくものもあるのかもしれない。そうだとしても涼々にはなんら関わりのないことだった。
味気のない食事を済ませ、手順通りにことを終える。新しい刺激などはないし、少なくとも涼々は求めたいとも思っていない。かと言って、いつも変わらない安心感に包まれているというわけでもない。
元通りに服を着こんだ帰り際も、コートのポケットに手を差し込み、そこにある小さな円柱形を探り当てる。いまひとつクリアにならない指先の感触が信用できず、リップをポケットから出して確認した。ここで忘れて行ったら最後、出てくる保証はない。
「何それ」
すぐに出ていかない涼々を不審に思ったのか、普段は見送りなどしないアミが玄関まで出てきて、涼々の手の中をのぞき込む。
「ちょっと、ね」
短く答えた涼々がパンプスに足を押し込めている間も、アミはそこから動かない。女性らしいアイテムを持っていたことがそんなに気になるものだろうか。
「拾ったの。男の人が持ってたんだけど、返そうと思って」
弁解するように語気を強めた涼々の背中に、アミはぴったりとくっついて、へえ意外、と鼻に引っかかる甘い声を出す。
「スズもそういう人のいるところ、行ったりするんだ」
「違う」
勢いよく振り返る涼々に振り落とされる前に、アミは素早く身体を離した。
「なんだ、違うの。いい店なら教えてもらおうと思ったのに」
リビングに向かって歩き去るアミの続けた言葉はよく聞こえなかったが、でもそれってこっち側の人でしょ、という意味をとることはできた。
遠慮なく音を立てて鉄扉を閉め、アパートの廊下を歩く。アミの言ったことを、一度も考えていないわけではなかった。こっち側、とはこの場合、広い意味で言ったのだろう。彼もまたどこかに、大多数の人々になじまないものを抱えているのかもしれない。そのことがぼんやりとした疑いのまま漂うだけだったのは、うまく言い表す言葉が見つからなかったからなのだろうと、涼々は自分の思考を冷静に見つめた。
特定の数人以外に、こちら側の人間と関わることはもう何年もしていない。まして女のかたち以外の人間になど、もはや用はないと思っていた。たとえ出会ったとしても、互いにそうとわからずに通り過ぎていくだけだ。まだ彼がそうと決まったわけではないが、もしかしたらこれは、きっかけと呼んでもいいものなのだろうか。
いずれにしても、これを返すという名分は果たさなければならない。車のエンジンをかけた涼々の頭の中では、彼に会って話しかけるイメージが幾通りも淡く浮かんでは消えていった。
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