第4話

 車通りのやや少なくなった道路を飛ばし、車を入れて玄関をくぐる。真っ先に聞こえてきたのは、母が念仏を唱える声だった。いったいどこで習ってきたものなのか、ただの聞きかじりなのかは知らないが、この声は母に異常のないことの証拠だった。

 冷蔵庫を開けて、母の夕飯がきちんと食べられたことを確かめる。食卓に置き去られた食器を回収して、自分の弁当箱と一緒に手早く洗った。水の音と念仏が単調なリズムで家の中に響き、眠気を誘う。

 5年前に父が他界したのがきっかけだった。家事も近所づきあいも完璧にこなす、いわゆる一昔前の専業主婦だった母の姿は、徐々にひび割れていった。とどめを刺したのは、昨年の妹の結婚だろう。結婚式には喜び勇んで出席したものの、それ以降は、涼々よりも仏壇に話しかけている時間の方が長い。

 涼々には理解できない。もうこの世にはいない人間に、日がな一日向き合っていられるものだろうか。いや、相手の生死に関係なく、誰か一人を見つめ続けるなど、物好きのすることとしか思えなかった。涼々にとって人間とは、ベルトコンベアに乗って流れてくるようなもので、目の前に来たものに対する工程をこなすだけで十分なのだ。そういう意味では妹の友梨も、涼々にとっては遠い存在だった。

 2階に続く廊下を、さして大きな足音も立てずに歩く。それなのに仏間の前を通りかかると、あんた、としゃがれた声がする。すっかり耳が遠くなっているはずなのに、母に呼び止められずに自室に向かうことのできた夜はまだ一度もない。

「帰ってきたんなら、挨拶ぐらいしな」

 向こうが毎日同じことを繰り返すならば、こちらもそうするまでだった。聞こえていないふりを決め込み、足を止めずに階段を上る。仕事と同じルーティンワークだった。

 母の言う挨拶は、母自身に対してではない。仏壇に、ということらしいが、涼々は一度も母の命令に従ったことはなかった。

 特段疲れているわけでもなかったが、部屋に着くとすぐ、ベッドに身を投げ出す。他にはデスクとクローゼット、カラーボックスが一つずつ置かれた、こざっぱりとした部屋だ。デスクの上には布切れが散らばっていて、そこだけがカラフルで雑多な印象だった。

 母にあんた、と呼ばれるようになったのは、いつからだろう。幼い頃、いや、大学生のときくらいまでは、涼々ちゃん、友梨ちゃん、と呼ばれていた気がする。父の葬儀のときは、と記憶を探ったが、雑務に追われたことしか覚えていない。

 あのときは涼々も簡単な化粧をした。ファンデーションだけは肌色に合わせたものを所持していたが、口紅などはほとんど母か妹のものを使ったのだった。と、それを呼び水に、今朝の紅色のことをまた思い出す。がばとベッドから飛び起き、通勤用のバッグからペンケースを取り出した。文房具の仲間のような顔をしてそこに収まっているそれは、いざ手に取ってみると、どうにもしっくりこない。アミの化粧品類を見てきたせいだろうか、今になって、他人のものを持ってきてしまったきまり悪さに襲われる。

 改めて蓋を開けてみると、塗っているときの印象よりは落ち着いた色が顔を出す。だからなんだというのだ、と涼々は鼻だけで一笑し、リップクリームを再びペンケースに押し込めた。

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