第2話
眼科クリニック事務員の制服に着替えてしまえば、涼々は自分をロボットにすることができる。視力検査、眼圧測定、処方箋。隣に座る同僚と話すことすらせず、決まりきった文句や数字を、定められた手順でさばいていく。間違いがないとほめられることもあるが、この仕事では手順を外れる方が難しいと、涼々はそのたびに思っていた。
平日の午前中でも、クリニックの待合室はあっという間に埋まっていく。駅に近いという立地のよさもあって、車を持たない高齢者や、買い物ついでの主婦に好評らしかった。
「いくらかしらねえ」
受付に座っていると、上から声が降ってくるように感じる。パソコンの画面から顔を上げると、強烈な赤色が目の前に現れた。口紅をこれでもかと塗った妙齢の女性だった。顔を見上げる角度のせいか、よけいに化け物じみて見えてしまう。こういう患者も珍しくはなかった。眼科に目の周りの化粧はして来られないから、その分唇を強く染めるのだろうか。普段は、目も唇も染め上げて、つくりものの顔で過ごすのだろうか。ほとんど化粧をしない涼々にはわからなかった。
「お大事にどうぞ」
録音を自動再生するような言葉とともに患者を見送って、涼々は今朝出会った紅色のことを思い出していた。思わず拾ってきてしまった、彼のリップクリーム。きっと鞄から滑り落ちてしまったのだろう。少し色が落ちてはいたけれど、間違いなくあの紅は、あのリップクリームの色だ。何も塗っていない、人間の素の色とは違う。
でも、驚くほどに似合っていた。この受付で見かける化粧の濃い女性たちよりも、スーツに身を固めた彼の方が、よほど美しい唇をしていた。人工的なわざとらしさもなく、それでいて鮮やかな印象までは消さずに、清楚な存在感があった。
結局、昼休憩に入るまでずっと、涼々はその紅色のことを考え続けていた。バックヤードに戻ると、弁当箱よりスマホより先に、そのリップクリームを取り出す。同僚が何人か外出を告げていったが、涼々にはほとんど聞こえていなかった。
つい拾ってきてしまったはいいものの、どうするという当てもなく、蓋を開け閉めしてみる。そのあと制服のポケットに入れたが、思い直してペンケースに収めた。
弁当箱の蓋を開け、スマホをチェックして、まず着信がないことに安堵する。ここ数年でめっきり老け込んだ母は、たまに昼でも調子を崩して、涼々に電話をかけてくることがある。もっとも、派遣事務員の身分では仕事を切り上げることなどできないのだが、そんな日にはどこにも寄らずにまっすぐ家へ帰る羽目になるのだった。
昨晩の残り物を詰めた弁当をつつきながら、ホーム画面からは見えない、深い階層にあるマッチングアプリを起動する。駅ビルまで昼食を買いに行った同僚たちは、今しばらくは帰ってこないはずだった。カラフルに着飾った、あるいは肌色の面積がやや多い女性たちの写真が並ぶ。涼々はそこには目もくれずに、右上の通知アイコンをタップした。
『今晩また、うちでいい?』
届いていたのは、このアプリの趣旨にはそぐわない、至って簡潔なメッセージだった。本来、女性同士が出会うためのものだったが、涼々にとっては、ただの連絡ツールとなって久しい。
『了解』
連絡履歴にはアミをはじめ、数人の名前が繰り返し並んでいる。そのほとんどが、今日のような短いやりとりだった。アミとは三年ほど前に出会ってから、特に盛り上がりも停滞もなく、今のところは週に一度ほどの関係を続けている。
都会にいた学生時代は、今と大差ないとはいえ、もう少し自由だった。出会いはもっと身近にあったし、隠すことにも必死にならなくてよかった。それこそ唇どころでなく、全身を飾りたてた人たちと飲んだこともある。だから、一人の男性が唇を彩っていようが、肌に何を塗っていようが、特段驚きはしなかった。
しかし極彩色の記憶はすでに遠く、この数年の灰色の生活に塗りつぶされつつある。日に八時間はロボットになり、帰れば母の世話に追われ、ときどき女性のもとを訪ねる。これが涼々のほとんどすべてと言ってよかった。
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