紅い唇

鈴野広実

第1話

 その人は、真っ赤なくちびるをしていた。



 朝の駅前通り、駐車場から駅の正面へ続く大通りを、涼々は一定の足取りで歩いていた。街路樹の葉はそよともしないが、汗ばむ季節はもう過ぎていて、通勤は苦ではない。同じ制服を見つけた高校生や、30分に一本の電車に乗り遅れまいとするサラリーマンが、どんどん涼々の脇を駆け抜けていく。

 勤務先が入るビルと、その提携駐車場との行き来には、毎日きっかり6分かかる。それでも、実家から最寄りのバス停まで徒歩20分であることを考えれば、どちらを選ぶかは明白だ。

 物心ついた頃からほとんど変わらない駅前の風景を離れて、路地を曲がり、やや人の少ない通りに出る。年季の入った建物が整列する中、幅の広い五階建てのビルに入っていく。まっすぐエレベーターに乗り、操作盤をろくに見ずに5のボタンを押して、スマホを取り出す。「その人」の声が前方から飛んできたのは、涼々が閉ボタンに手をかけたときだった。

「すみません、乗ります」

 普段の涼々の生活圏では聞くことのない、はっきりとした透明感のある声だった。涼々がもたもたと開ボタンを押すより先に、その人は扉を手で押さえて箱に乗ってくる。扉が閉まる瞬間、ちらりとこちらを見て、すみません、と頭を下げた。そのとき、涼々の視線は礼儀正しい会釈と交わることなく、その人の口元に吸い寄せられていた。

 涼々などいないかのように、その人は電話をかけ始めた。スマホを肩で支え、鞄を器用に膝に乗せて、両手で中身をひっかきまわして何かを探している。はい、あの契約書ですね、あります、という言葉が涼々の耳にも入ってきた。エレベーターが四階に着くと、扉がまだ開ききらないうちから、隙間をすり抜けるようにしてその人は降りていった。

 涼々の勤務先は最上階にある。箱に一人残った涼々の目に、何か紅いものが映った。何人もの靴に踏まれて真っ黒になった絨毯に落ちていたそれは、スティック型のリップクリームだった。黒い外観は床の色に飲まれているが、わずかに示された紅色から、色付きのものであるとわかる。

 すぐにエレベーターの扉は開いて、出勤を迫ってくる。涼々はとっさにそれを拾い上げて、判で押したような同じ仕事が待つ職場へと向かった。

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