第2話 朝の時間

1789年、6月27日。


 僕は、脳がまだ完璧に目覚めていない状態で部屋の扉を開けた。よたよたした足取りで壁を伝いながらギシギシとなる階段を降りていく。半目の状態でもわかるほど眩しく光る居間に入ると、そこには一人の女性が物静かに椅子に座っていた。


 彼女の名はシュリール。僕の叔母で、6年前から一緒に住んでいる唯一の家族だ。


「おはようカルターナ。冷める前にご飯食べるわよ」


 仕事着で椅子に座っていた彼女は、手招きで俺を誘う。俺は手で目をこすりながら芳しい匂いが漂う円形テーブルへと足を進める。


「おはようシュリール。言われなくてもご飯食べるよ」


 シュリールの向かいに僕が座ると、彼女は両手を組んで食前の祈りを始めた。


「父よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事を頂きます。ここに用意されたものを祝福し、私達の心と体を支える糧としてください。私達の主ネゾントによって。カラビヤ」


 この国は国民のほとんどがネゾント教の教徒だ。シュリールもその一人。僕はと言うと、教徒ではない。行事は楽しむが神は信仰しないいわゆる無宗教だ。僕の家はちょっと特殊で、母親の家系の殆どの人が無宗教だと聞いている。実際に家系図に明確に記されていたから恐らく本当なのだろう。

 そんな家系だけど僕は子供の頃、ネゾント教を信仰するかどうか悩んでいた時期があった。だけど、10才の時に母が死んだことがきっかけで考え方が変わった。最初はもちろん神の試練だと思った。乗り越えなければ! って意気込んでいたよ。でも、乗り越えても乗り越えても現れる問題や課題を前にしたときにふと思ったんだ。


「世の中の良いこと悪いこと全て神のせいにしてないか?」


 ってね。そう思った次の日から僕は無宗教デビューしたんだ。


 シュリールの食前の祈りが終わると、僕達はご飯を食べ始めた。


 今日の朝ご飯はライ麦のパンとウィンナー、スクランブルエッグ、そしてワインだ。

 ライ麦のパンは本来、サワー種を使っているので酸っぱいのだが、慣れればそれが逆にアクセントとなって僕の味覚を刺激する。

 ウィンナーは焼き方がいいのか表面が艶々していて美しい。口に運んで歯で噛んでみると、口中を肉汁が包み込む。幸福の味だ。

 パンとウィンナーでごちゃごちゃになった口の中をリセットさせてくれるのが、味付けがなされていないこのスクランブルエッグだ。味がついていないことでスポンジの役割を果たし、肉汁やパンの欠片を絡み取りながら喉の奥に運んでいってくれる。

 そこに追い打ちをかけるのがワインだ。独特の香りを放つこのワインという滑らかな飲み物が、口の中をコーティングしてくれる。

 この一連の流れはまさに至高。こんな朝食をとれるのもシュリールのおかげ。彼女はこの国の大商人サンクトルの元で働いているので比較的給料が安定している。とは言っても、そこらの富裕層《ブルジョア》には敵わない。それが現実だ。


 ご飯の量がある程度減ってきた頃、シュリールが僕に話しかけてきた。


「そう言えば今日、あんたどこかに行くとか言ってなかった?」


 僕は最後のウィンナーをフォークで指しながら答える。


「うん、今日は成人になったのを祝うためにヴィームと一緒に話題の占い店に行くんだ」


 我が国ペイダスでは十六歳の誕生日を機に子供から成人となる。ヴィームは二ヶ月以上前に成人を迎えているのだが、僕はまだそれを直接的な形で祝えていなかった。本当はよろしくないことなんだけどね。


「そう。わかったわ。くれぐれも怪我だけはしないでね」


 シュリールはコップに残ったワインを一気に飲み干すと、食後の祈りを始めた。


「父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。あなたのいつくしみを忘れず、すべての人の幸せを祈りながら。わたしたちの主ネゾントによって。カラビヤ」


 彼女は祈りを終えると、荷物を持って玄関へと向かった。それを僕は目で追う。


「それじゃあ私は仕事に行ってくるわね」


 玄関前の扉を半開きにした状態で僕に向かってひらひらと手を振ってきた。僕は空いていた左手で手を振り返す。


「行ってらっしゃ〜い」


 僕の言葉を聞いたシュリールは、コクっと頷くとそのまま扉を閉めて出掛けていった。彼女が出掛けていくのを見届けた僕は、ワインの最後の一口を飲み干すと、ゆっくりと立ち上がる。完全に目が覚めた僕は、家の木材のいい香りを嗅ぎながら出掛ける準備を始めた。

 茶色と青のしましま服を上に、茶色一色のズボンを下に着て、髪をしっかりと整える。腰の上に巻き型のバックを、左手首にブレスレットを装着して完成だ。


「お金よーし。防犯対策よーし。その他もろもろもよーし。それじゃあ行くか」


 こうして僕は、重い木の扉を開けて、人が行き交う大通りへと踏み出していった。

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