第6話

 どうやって家に帰って来たのか、あまり覚えていない。電車に乗って、それからバスに乗って帰ったのだろうけど、いまいち思い出せない。気づいたら俺は自宅に戻っていた。殺風景な、何もないアパートの一室に。

 ふと、頰が濡れていることに気がついた。涙を流すなんて、何年ぶりだろうか。

 両親の葬式が終わって叔父夫婦の家に引き取られた、最初の夜。幼かった俺は布団に顔を埋め、声を殺し夜通し泣き続けた。その後はどんなに辛いことがあっても、涙が流れることはなかった。

 あの夜に、一生分の涙を流したつもりだった。


 黒河の言葉を聞いた後、足の力が抜け、へなへなとその場にへたり込んだ。黒河は狼狽していたが俺はなんとか立ち上がり、アパートの一室から這い出た。

 俺が死んでも、この世に悲しむ人なんていない。それは事実だった。でも、あの世にはいたのだ。

 人生に絶望し、死ぬことを決意した俺にもう一度『生きろ』と父は言ってくれた。

 両親が死んでから、今日でちょうど十年になる。この日俺は死ぬと決めていた。最後に、死ぬ前に両親と過ごしたアパートに行ってみよう。それはただの思いつきだった。

 なんという運命のいたずらなのだろう。いや、もしかしたらそうではないのかもしれない。父と母が、俺をあのアパートに導いてくれたのかもしれない。

 そして俺は黒河と出会い、彼の自殺を阻止し、父の伝言を聞いた。

 ポケットの中から財布を取り出し、何年も仕舞い込んでいた紙切れを取り出す。

 小さく折り畳んだそれを広げる。


 ──彰、お前は生きろ。


 十年前、両親が俺に遺した短い遺書だ。ずっと、今日まで財布に忍ばせていた。お守りのように大切に保管していた。力強いその文字を見ると、再びじんわりと目頭が熱くなってくる。

 十年越しの両親の言葉は、もう一度俺の心を震わせた。ぽろぽろと、涙が頬を伝う。

 俺は泣きながら、今朝自分で書いた遺書をビリビリに破り捨てた。窓を開け、ホームセンターで買ってきたロープを外にぶん投げた。


 ──そんなくだらない理由で死ぬのはやめろよ。

 ──命を軽く考えている奴を見ると、腹が立つんだ。


 ふいに黒河に浴びせた俺の言葉が、頭の中で響いた。自分自身が情けなく、涙が止まらなかった。

 俺もそうだったのだ。命を軽く考え、くだらない理由で死のうとしていた。俺もあの冴えないおっさんと同じ、甘っちょろい人間だったのだ。

 ふっ、と思わず笑みがこぼれた。


 ──分かったよ。もう少しだけ、生きてみるよ。


 オレンジ色に輝く空に向かって、天国にいる両親に俺は声をかけた。

 そういえば、と思い出し、テレビ台の上に置いてある写真立てに手を伸ばした。もう何年も伏せたままだったそれを、立て直した。


 小学六年生の修学旅行の当日の朝、父が三人で写真を撮ろうと言い出したのだ。普段写真なんて撮らないのに、なんでわざわざこんな日に撮るんだろう、と俺は当時不思議に思っていた。

 写真立てには遅刻しそうで不機嫌な顔の俺と、その後ろに父と母が優しく微笑んで立っている。二人は俺の肩にそっと手を添えてくれていた。

 母の手は震えていて、父の手は力強く俺の肩を掴んでいたのを覚えている。この時、二人は死を決断していたのだ。気のせいだと思っていた。あの時の母の目には、涙が浮かんでいるように俺には見えた。

 そんなことをふと、思い出した。




 数時間後、泣き疲れた俺はスマホでYouTubeを見ていた。

『ガム・シャラ男』と入力して、検索ボタンを押した。

 ずらりと検索結果が出て、その中に突出して再生回数の多いものがあった。その数字はゆうに三百万回を超えている。

『ピーナッツを鼻に入れて、口から出します』というタイトルのものだった。

 再生すると、ピーナッツを鼻に入れて口から出し、それを一分間で何周できるか、というくだらない動画だった。三十秒を過ぎたあたりでピーナッツが鼻の中で行方不明になり、ガム・シャラ男がパニクったまま動画は終了する。

 その動画を見て、俺は腹を抱えて笑った。何度も動画を再生し、「あいつ、やっぱ才能あるよ」と一人でゲラゲラ笑った。


 こんなに笑ったのも何年ぶりだったろうか。

 何度も何度も動画を再生し、そのたびに俺は笑いながら、そして涙を流した。

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とあるアパートの一室で起きた奇跡 森田碧 @moritadesu

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