第5話


「……おっさんの勝ちだな。まあ、勝ちというか、負けというか……。とにかく俺は帰るから、あとは好きにしてくれ」


 悄然と項垂れる黒河に、俺は冷たく言い放った。

 賭けに勝って人生に負けた。今の黒河にはそんな言葉が相応しい。

 彼を見ていると少し気の毒だな、と思った。こうなるのなら最初から余計なことはせずに、あのまま死なせてやればよかったかもな、とも思った。

 黒河は無言のまま、首が折れそうなほど俯いている。俺はかける言葉を探すこともせず、玄関に向かった。俺も早いとこ家に帰って、彼に続かなければ。


「俺の人生って、なんだったんだろう」


 背後からぼそりと声が聞こえた。無視してもよかったが、俺は足を止めた。


「まあ、こんなもんだろ、人生なんて。おっさんはまだ恵まれてるほうだと思うよ。お互い、来世頑張ろうぜ」

「君はいいな。まだ若いから、いくらでもやり直せる。何があったのか知らないけど、君は俺の分まで頑張ってくれよ」


 何も知らないくせに偉そうなことを言うなよ、と思ったが口には出さなかった。俺が経験してきたことや、これから家に帰って死のうとしていることも、こいつには話す気なんてない。話せば今度は立場が逆転し、説教を垂れてくるに違いない。三十歳のおっさんなんて、そういう生き物なのだ。若い奴に押し付けがましい持論を展開し、良いことを言いたいだけの人種なのだ。


 俺は踵を返し、玄関に向かう。

 その時、黒河のスマホが鳴った。変テコな着信音に俺は思わず足を止め振り返る。彼はゆっくりとスマホを手に取り、電話に出た。


「もしもし。あ、お疲れっす。……はい……はい……」


 おそらく仕事の電話か何かだろう。もしかすると解雇の電話だったりして。

 と、そんなことを考えている場合ではなかった。俺は再び玄関に向かい、ドアノブに手をかけた。


「本当ですか!?」


 黒河は声を上げ、俺は三たび振り返る。


「はい、はい……是非! お願いします!」


 彼の表情はまさに水を得た魚のように生き生きとしていた。


「おい、どうしたんだよ」


 彼のあまりの変貌ぶりに、俺は聞かずにはいられなかった。


「今マネージャーから電話があって、ネタ番組のオファーがあったらしいんだ! しかも全国放送のネタ番組なんだよ!」

「お、おお。よ、よかったな、おっさん」

「プロデューサーがYouTubeに投稿したネタを見てくれたらしいんだ! 全国放送なんて、初めてなんだよ!」


 生きててよかった、君のおかげだ。そう言いながら黒河は俺の手を握る。さっきまでの落ち込みようが嘘のようで、なんて現金なやつなんだ、と俺は呆れるばかりだった。


「それじゃあ、死ぬのはやめるのか?」

「ああ。もう少しだけ生きてみるよ。こんなもの、もう必要ないな」


 そう言って黒河は自ら書いた遺書を拾い上げる。俺はため息をついた。

 なんなんだよ、このおっさん。そんなくだらないことで翻意しやがって。こいつが生きようが死のうが、俺には関係ない。無駄な時間を過ごしてしまった。早く帰って死のう。そう思いながら玄関に向かおうとした時、黒河の異変に気づいた。彼は遺書を広げたまま、固まっていた。顔は青ざめている。


「今度はどうしたんだよ、おっさん」

「……思い出したよ」


 黒河の声は震えていた。遺書を持つ手も、小刻みに震えている。


「何を思い出したんだ?」

「……君、お父さんは元気かい?」

「は?」


 思わず声が裏返りそうになった。このタイミングで何故父の話になるのか、まったく意味が分からない。


「あんたには関係ないだろ。なんでいきなりそんなことを訊くんだよ」


 元気なわけがない。父はもう死んでいるのだ。こんな奴に話す気はないけれど、無性に腹が立って黒河を睨みつけた。


「いや、悪かったよ。元気なら別にいいんだ。忘れてくれ」

「なんだよ。そこまで言ったなら言えよ。気になるだろ」


 黒河は少し考え込んだ後、不承不承に口を開いた。


「いや実はね、事故物件なんだよ、この部屋。先週だったかな、ついに幽霊が出たんだ」


 その言葉にどきりとした。俺は息を呑んで、彼の次の言葉を待つ。


「ほら、遺書に書いただろ? 幽霊に取り憑かれたかもしれないって。この部屋に三年住んでるんだけど、本当に出るとは思わなかったよ」


 黒河は言いながら手に持っていた遺書を広げ、幽霊がどうのこうの書いた部分を俺に見せる。「ほら、ここ」


「……それで?」

「夜中に目を覚ますと、枕元に立ってたんだよ。中年の男が、虚な目で」


 背中に冷たいものを感じた。それは怪談話を聞いて悪寒が走ったからではなく、その人物に心当たりがあったからだ。俺の両親は、この部屋で死んだのだ。


「そ、それで?」

「その男は、『息子が来ると思うから、伝えてほしい』って言うんだよ。低い声で」


 汗が頰を伝う。ゴクリと唾を飲み込む。足元を、一匹のネズミが走り抜けた。


「それで、そいつはなんて?」

「いやぁ、でもやっぱり、あれは夢だったのかなぁ」

「だから、そいつはなんて言ったんだ!」


 もったいつける黒河に腹を立て、俺は彼の襟首を掴んだ。


「分かったって。話すから、離して」


 手を離すと黒河は呼吸を整え、やがてこう答えた。


「『お前は生きろ。そう伝えてくれ』。……男はそう言ったんだ」

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