人魚は9年目の約束を、かく語りき

kou

人魚は9年目の約束を、かく語りき

 表参道を歩く親子の姿があった。

 30代に入ったばかりの若い男女。

 男の名前は神谷茂。

 女は、神谷グレース。イングランド出身の女性、茂と国際結婚をし日本に暮らす。

 そして男の子が1人いた。神谷健一と言った。

 二人は、子供を間に仲良く手を繋ぎながら買い物に出かけていた。

 人通りの多い通りの端に、バインダーを持った女性が立っていた。

 胸元が大きく開いた白いシャツを着ており、豊満なバストが強調されていた。

 妖艶で、見る者を魅了するような不思議な女性だった。

 その女性は、神谷夫婦に話しかけてきた。

 どうやらアンケートらしい。

「これは、何ですか?」

 茂が聞くと、女性は笑顔を浮かべて答えた。

「はい。これは、この街で行われている『幸せ探し』というイベントのためのものです」

 グレースが訊き返す。

「ええ。街の中で幸せを見つけるためのイベントです。旦那様が幸せだと思ったものを一つだけ名前を書いて頂けますか」

 バインダーから一枚の紙を取り出し、茂に差し出す。

 取り立てて害悪の有る様子もないので、茂は自分の性別と年齢を書き、幸せは、妻と子と書く。 

 女性は夫妻の書いたバインダーを受け取ると、困った様子を見せた。

「どうしました?」

 茂が訊くと、女性は先程までの明るい表情とは一変し、どこか暗い影を落としているようだった。

 女性は申し訳なさそうに言う。

「申し訳ありませんが。二つ書かれていますね。どちらか一つにして頂けますか?」

 確かに茂達の書いたものは、二つある。

 それはどちらも、茂にとって掛け替えのないものだ。

 しかし、それを同時に書くことは許されないようだ。

 彼は迷うことなく自分の気持ちに従った。

 彼の出した結論はこうだった。

 プロポーズの時、茂はグレースに必ず幸せにすると言ったことを思い出す。

 僕にとって、妻が幸せの始まりだ。

 茂の言葉を聞いて、グレースの顔がパッと明るくなる。

 彼女は夫の腕に抱きついた。頬を朱に染め付き合い始めた頃のように、とても可愛らしく笑う彼女を見て茂は思った。

 僕の妻は世界一可愛いと。

 女性は、それを聞くと口元に薄く笑みを浮かべた。目は細まり、まるで肉を目の前にした獣のような印象を受けるものだ。

「では、お子さんを頂くとしましょう」

 女性は、二人の間にいた健一を見下ろした。

「……な、何を言っているんですか」

 茂が狼惑する。

 女性は、健一に手を伸ばす。

 茂は慌てて女性の手を掴み止めようとする。

 だが、女性の力は凄まじかった。茂の胸ぐらを掴むと払い除ける。

「何をするんですか!」

 グレースが叫ぶ。

 すると、女性は茂の方を向いてにっこりと微笑む。

 その笑顔を見た瞬間、茂の全身に鳥肌が立った。

 背筋に冷たいものが走る。

 本能的に危険を感じた。

 女は、慌て慄くグレースを見た。

「9年目よ」

 女の台詞にグレースは顔を青ざめさせる。

「あなた、まさか……」

 茂にはその意味が分からなかった。

 女は、一体何の話をしているのか。

 グレースの瞳には恐怖の色が浮かぶ。怯えながらも必死で何か言おうとしている。

 女は、グレースの耳元まで口を近づける。

「いいじゃない子供なんて。その気になれば、もう2~3人くらい産めるでしょ。だから私は、二番に目に大切なもので我慢してあげるの」

 その言葉を聞いた時、茂の背に悪寒が走った。

 グレースは蒼白となり、今にも泣き出しそうな顔になった。その場に膝をつけると女に懇願するように言う。

「お願いです。どうかそれだけは許して下さい」

 女はグレースを一蹴するが、グレースは睨み返すこともせずにただ黙って俯いていた。

「ワガママな女ね。なら、明日の夜明けまで待ってあげる」

 女は、茂の方を見る。

 茂は、金縛りにあったように動けない。

 心臓が激しく鼓動しているのを感じる。

 嫌な汗が流れる。

 茂の額から冷や汗が流れ落ちる。女というか弱い存在である筈なのに、目の前にいる女が恐ろしかった。

「中央公園の噴水で待っているわ」

 そう言って、女は茂達から離れた。

 翌朝、グレースは子供を抱えたまま噴水前にいた。

 誰一人、現れぬ静かな公園。

すると、噴水の水が竜巻のように舞い上がり、その中から女性が姿を現した。

 上半身は裸で張りのある乳房を露に、下半身は鱗に覆われた魚のような脚をしていた。

 人魚の姿は、神秘的な美しさがあった。

「子供を渡して」

 女が言った瞬間、茂が女に飛びかかった。手にはナイフを持ち、女を刺そうとするが、手首を掴まれる。

「そういうことね。では、今回はこの男をもらうことにするわ」

 女は茂の身体を魚の姿をした下半身で締め上げると、噴水へと飛び込んだ。

 茂は、永久にそこから浮いてくることは無かった。

 イングランドに、人を攫う人魚の話がある。

 人魚は助けてくれた男の願いを叶えるが、本性を表すと男を海に引きずり込もうとする。

 しかし、それが果たせなかった。

 人魚は9年後に、また来ると言い消えた。

 男は人魚の力による医術で何代も栄えたが、9年ごとに子孫が一人ずつ海で消えたという。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人魚は9年目の約束を、かく語りき kou @ms06fz0080

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ