第11話 危機到来


 ヘンリーはヘルメットを外して周囲を見渡し、第一印象を口にした。

「思っていたより匂いが無いな。国際宇宙ステーション内は恐ろしく空気が悪いと子供の頃耳にした憶えがあるんだが」

「ああ、日本の企業が開発した光触媒塗料のおかげさ。あの国の技術は細かい所でここの居心地を快適なものにしてくれているんだ」

チャールズが答えた。

「日本と言えば、太陽光パネルを宇宙に設置して地球に送電するとか、ロケットを使ったら莫大な酸素と費用を要する計画を政府が真剣に検討したりしていたよな。訳の分からない人間ばかりかと思っていたけれど、違うんだな」

ヘンリーが言う。

「ああ、民間の技術者は優秀だ。Aグループのアキラもまたしかり。彼は技術だけでなく責任感も人一倍だ。だからこそ、阿保な政府に我慢ならなくなりテロルを実行しようとして捕まったって話だぜ」

宇宙エレベータ勤務が既に二年になろうとしているチャールズは、ここに来てから耳にした噂を口にした。

 宇宙服の生産や移動時の事故など、様々な問題を乗り切って、宇宙エレベータには少しずつ人が増えていた。今回はHチームの3人が到着し、その中で第二エレベータでの勤務が決まったヘンリーだけがカーゴを降りた。残りの二人はカーゴに乗ったまま中間設備に向かって旅立っていた。当初は人力だった第二エレベータ内の移動も、今では引き込み線でのフック脱着だけで済むようになっていた。ここまで来るまでに何人かは命を落とし、また何人かは正気を保てず地上に降りた。しかし、失敗を繰り返しながらも、円滑に人を送りこみ作業を進めるための技術は確実に進歩していた。そして、どうにか二基目の宇宙エレベータ、通称ベータも完成が見えてきた。テザーで牽引できる重量の関係で二時間置きにしか荷物を運べないことが宇宙エレベータの弱点だった。しかし、ベータが完成すれば一日当たりの輸送カーゴ数は単純計算で倍となる。加えて、テザーの開発も全世界がしのぎを削っており、ベータに備え付けられるテザーは、アルファに比較して強度三割増しとなっている。アルファが第一・第二エレベータと中間設備の三施設なのに対して、ベータは第一・第二・第三エレベータと二つの中間設備、計五つの施設となった。エレベータ施設と中間設備がそれぞれ1つ増えたことで、当初予算に比べて多少の費用超過はあった。しかし、アルファにより安価に資材を運搬できたこと。そして、重力と遠心力のバランス理論に則り、高度3万6千kmから地上と外側両方にテザーを伸ばすという理想的工法を取り得た結果、工事に要した資金はアルファの1/8になった。それに伴い保険料もアルファとの比較にして1/30となった。それにも拘らず、新型テザーにより揚力がアルファの三割増しとなったことで、1回当たりの物資運搬重量はカーゴ込みで1,300kgを見込めることとなった。二基のエレベータ運用によるリスクの回避と大幅な利益増加。二つの材料により、地上とエレベータそれぞれで働く者達の表情は明るく輝いていた。

 宇宙エレベータで働く者達にとって最も喜ばしいのは、何と言っても一日当たりの作業時間がついに八時間に収まるようになるということだった。今回のHチーム三人の到着により三交代制二十四時間操業が実現するのだ。ただし、問題はある。そもそも施設のほとんどを作業スペースが占めている宇宙エレベータなのだ。人が増えるということは、宇宙服を脱いでくつろげる空間がその分減るということでもある。そのことによるストレスは徐々に積み重なっていき、小さないざこざが絶えないようになっていた。しかし、この問題で潤滑油となったのがAチームの三人だった。PROJECT BABELの最初期から宇宙に居るAチームは既に伝説的存在となり、「トリプルA(「Aチームの三人組」と「完璧な成績」を掛け合わせた意味)」と呼ばれていた。3人全員が生きて、しかも現在まで仕事をこなしていることは脅威であり、他の乗務員にとって希望の象徴となっていた。そんな尊敬の対象であるにも拘わらず、何かいざこざがあると三人はすぐさま両手を上げて降参した。

「いやいや、俺がまずかった。お前達の言う通りにするよ」

実にあっさり頭を下げるのだ。相手は拍子抜けして喧嘩する気がなくなってしまうのであった。このことが、結果として宇宙エレベータ内に充満した閉塞感をいくらか緩和する役割を果たしていた。三人には喧嘩をするわけにはいかない理由があった。宇宙空間にいるということは、筋力を使わなくなるということだ。長くいればいるほど、筋力は弱くなる。つまり、ここ宇宙エレベータで肉体的に最も強いのが到着したばかりのHチーム。力業で勝てる見込みのないのが、アローン、アシュケナージ、アキラのAチームなのである。そんな訳で、宇宙エレベータ内の人間関係は微妙なバランスの上で成り立っていた。しかし、小さいとはいえ、いざこざを放っておいて良いわけがない。凡そ100mの距離があるアルファとベータの中間に保養施設を用意することをデイヴィッドは約束した。そのこともあり、彼が持つ乗務員の生殺与奪権は、不要になりつつあるのだった。


 ベータの稼働テストは順調に進み、ついに本格稼働の日を迎えることとなった。地上施設に完成したベータ用乗降口前は人で溢れていた。事業に出資する各国首脳や国際的投資家が招待され、取材のマスコミも交えて盛大なセレモニーが催されたのだ。来賓の挨拶から乾杯まで順調に事は進み、最後に、初回の積荷であるフィルム型ペロブスカイト太陽電池がカーゴに収められた。ポーランドの企業が製造したものだ。運搬と宇宙での設置作業を請け負った上で、宇宙エレベータ施設が買電するという事業企画が「更なるエコシステム」としてマスコミにも注目されたものだった。理想的な施設としてのイメージ戦略をデイヴィッドが忘れることは決してない。

「積荷が軽いのであまり儲けになりません」

デイヴィットのジョークに会場が湧く中でカーゴが上昇を始め、しばらくして見えなくなった。興奮の中でセレモニーは幕を閉じた。

 参加者のほとんどが立ち去った後、デイヴィットはワインを片手に数人の投資家に事業についてより詳しく説明していた。

「おおっと、大事なことを忘れていた」

物資搬入口の前に来た時、デイヴィットは肩をすくめると、設備の名札を覆っていたテープをやおら剥がした。

「核廃棄物最終処分場入口」

投資家の一人が名称を読み上げた。

「これが一番重くて金になるんです」

デイヴィットがシニカルな笑顔で説明した。

「そりゃ、そうだ」

その場にいた投資家全員が大笑いとなり、それを潮にお開きとなった。航空機視認用蛍光塗料が塗布されて美しく輝くエレベータ・テザーは、微かな音を立てて天空に吸い込まれ続けていた。しかし、実物に興味の無い投資家達がわざわざ振り返ることはなかった。


 大事なセレモニーが終わり、デイヴィッドは一人個室でくつろいでいた。彼の腕には竪琴が抱かれ、やすりで整えられた爪先からは細やかな音が紡ぎ出されていた。最後の音をハーモニクスで仕上げ、しばし余韻を楽しんでいたデイヴィッドだったが、その静寂は扉をノックする音で破られた。

「どうした?」

やや機嫌を損ねた声でデイヴィッドは返事をした。

「所属不明のAn-225 ムリーヤの飛行が確認されました。予測飛行方向延長上に当施設が含まれます」

ヨーコの緊迫した声が扉の向こうから聞こえてきた。

「ベータの披露セレモニー直後という抜群のタイミングで仕掛けてきたな。確かにマスコミにとっても絶好の話題となる。天国から地獄とはこういうことを言うのか…」

羽織っていたガウンを椅子に掛けると、デイヴィッドはやおら立ち上がり、スーツの入った衣装タンスに向かって歩いて行った。

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