第4話 雲上世界
大学内起業としてPROJECT BABELのチームが発足して間もないある午後、それほど広くないデイヴィッドの教授室に、会議でぶつかった老物理学者の声が無駄にけたたましく響き渡っていた。
「君はこの計画の大変さを解っていない!」
彼はこぶしを握ってデイヴィッドの机を叩いた。
宇宙物理学で世界に名を轟かすこの老学者は、そもそもデイヴィッドの才能を見抜いて教授に引き上げた男だった。デイヴィッドが所属する学部の部長も、もちろんこの男だ。肩書上は同じ教授であるものの、学内はもちろん、学会における地位はデイヴィッドとは雲泥の差があった。故に、世界初と名の付くような計画であれば、当然の如く自分の名前を第一に冠するであろうし、そうでなければ大学はもちろん、予算を補助する国が承認するはずがないと高を括っていた。いずれデイヴィッドは自分に頭を下げに来る。しょせん、掌の上で回るだけの独楽。デイヴィッドのことを彼はそう考えていたのだった。ところが、デイヴィッドが最初に掛け合ったのはなんと合衆国大統領だった。若き研究者と対話するという政治的人気取りの施策にデイヴィッドはぴったりの素材であり、デイヴィッド本人もその機会を逃さず利用した。そして、デイヴィッドに魅せられた大統領からのホットラインにより、大学の理事会は学部の推薦なしでプロジェクトチーム立ち上げを了承したのだった。
事情を知った老物理学者は、すぐさまデイヴィッドを呼びつけた。しかし、一向に自分の部屋に現れる様子のない彼に業を煮やして、靴音高く本人がやってきたのだった。
「三つの施設を宇宙で運用、そして、地上には指令室と巨大な受紐装置。君はこの計画にいったい幾らかかるのかわかっているのかね」
やれやれといった感じで、デイヴィッドは実務に向いたシンプルなデザインの椅子から立ち上がった。
「地上にはテザー製造工場も用意しますよ。一々他所から運ぶのは無駄ですからね。全部でおよそ100億ドル程度。どんなに失敗が重なったとしても200億ドルを超えることは無いでしょう」
デイヴィッドはわかりきったことと言わんばかりに、老物理学者と対照的な落ち着いた声を発した。普段は細身の身体と柔和な笑顔が雰囲気を和らげているものの、6フィートを優に超える背丈のデイヴィッドは、立ち上がるだけでもある種の威圧感を身に纏う存在だった。目線が上向きになったことで、老物理学者の顔色には微かな変化が見られた。しかし、自らの息子より年若な青年に対して断固とした姿勢を見せるべく、彼はそれまで以上に声を張り上げた。
「ばかな。君は寝言を言っているのかね。そんな金額を個人で集められると、本気で考えているのではないだろうな?」
老物理学者の言葉に、室内にいる数人の助手は肩をすくめた。場合によっては職を失いかねない。彼らがこの学者の怒声に耳を覆いたくなるのを必死でこらえていたのは明白だった。
「たった100億ドルで手軽に宇宙へ物を運べるようになるのです。世界の軍事費が2兆ドルを超えている現在、それほど大きな金額だと私には思えませんが?」
デイヴィッドの返事を聞いて、老教授は呆れ顔になった。
「平和を維持するための軍事と、不要不急の宇宙開発とは違う。そんなこともわからんのか君は!」
老物理学者は言った。そして、話にならんというように横を向くと、手近な椅子に腰かけた。
「なるほど、そんな金額が集まるはずないと仰るわけですね。では教授、私が幾ら集めたなら実現可能だとお認めいただけますか?」
デイヴィッドは組んだ両手を机上に置き、わずかに身を乗り出して言った。
「そうだな。今すぐ10億ドル集められるのならば、学部として追認してやっても良いだろう」
無理に決まっているとでも言いたげに、老物理学者は目を瞑ったまま答えた。
「わかりました。それでは今すぐ寄付を呼びかけましょう」
デイヴィッドは脇に置いてあったタブレットを手に取ると操作し始めた。
「君、モニターを持ってきて教授が見やすいように設置してくれたまえ」
デイヴィッドは助手の一人に指示をした。予め用意してあったらしく、世界最大のクラウドファンディングサイトで速やかにプロジェクトが立ち上げられ、支援者と資金の募集が始まった。
「失礼、何人かにメールで知らせることにします」
デイヴィッドは更にタブレットを操作した。
「ちょうど午後3時です。お茶でもいただきながら待つことにしましょう」
デイヴィッドの表情はあくまで冷静だった。
10分後、老教授の持つティーカップはカタカタと震えていた。支援金額は募集金額を遥かに超えて、既に100億ドルに達しようとしていた。
「ばかな、こんなことがあるわけがない」
老物理学者は顔を蒼白にして、弱々しく呟いた。
「誰よりも宇宙物理学に精通しているあなたも、ビジネスについてはあまりご存じなかったようですね」
深々と椅子に座るデイヴィッドの眼には自信が漲っていた。
「世界の企業トップがなぜ宇宙に行きたがるのかご存じないのですか?地上の物理的災害、幾多のハッキングから逃れられる場所に彼らは自分達の情報、つまりサーバーを置きたいのです。それも何よりも安全な方法で。更に、何が起こってもおかしくないこの時代、出来得るものならば核シェルターを確保したい。そのためならいくら払っても惜しくないと考えているのですよ」
老教授は何も言い返すことができず、ただ、呆然としていた。
「どうぞこれまで通りに宇宙の成り立ちをご研究下さい。過去についてはお任せします。その成果を元に、私は宇宙利用という未来の学問にまい進させていただきます」
デイヴィッドの言葉を遮ることのできる人間がこの世に一人として存在しなくなった、その瞬間だった。
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