第2話 PROJECT BABEL誕生

 遡ること数年。とある国際会議場大会議室に一人の男の姿があった。その優秀さはもちろん、大柄ながらもスマートな身体、映画俳優と思しき甘いマスク、現代的なビジネス感覚、そして、目上の者に対しても歯に衣着せぬ発言をぶつけていく度胸の良さは、物理学者ながらも既に世間の耳目を集めていた。

「何もこの場所に施設が必要なわけではないのですよ」

壇上に独り立ち、遠心力と重力の釣り合いを表す数式を指示棒で示しながらデイヴィッドは言った。

「最初の施設は高度400kmでいけます。それならテザー(ワイヤー)も現在開発できている製品の強度で間に合います」

デイヴィッドは続けて言う。彼が指した場所とは、地球の重力と遠心力のバランスを表す数式が指し示す宇宙空間のある点のことである。宇宙エレベータの施設はそこにあらねばならない。この会議の席上にいるものならば誰もが知っているこの大前提を彼は、はっきり否定したのだった。

「デイヴィッド博士、改めて言うまでもないだろう。そこに無ければ地上に落ちるか宇宙の深淵に向けて飛び去ってしまうか、そのどちらかになるのだよ」

高名な老物理学者が異論を唱えた。


 赤道上空の地球同期軌道から紐を吊り下げていけば、やがて地上に到達する。だが、重力により、紐は地球に引き寄せられ、落下する。その為、地上とは逆方向に同じ距離分だけ紐を伸ばすのだ。そうすれば、引力と遠心力のバランスが取れて紐が地上に落ちることはない。その紐を使えば、膨大なエネルギーを消費することなく宇宙に物を運ぶことができる。つまり地上から36,000kmの高度に浮かぶ施設から、地球の中心方向と真反対の外宇宙両方に合計72,000kmの真直ぐな紐を宇宙に張るのだ。これが宇宙エレベータの原理となる。たった1kgの物を地球圏外に運ぶために1万ドル掛かるロケット輸送に対して、宇宙エレベータが完成すれば、その費用は百分の一となる。気楽な宇宙旅行も夢ではなくなるのだ。


 一見、すぐにも始められそうな簡単な事のように思えるものの、この方法には問題点があった。紐にはそれ自体に重さがある。地上から衛星までの36,000kmの長さとなると紐そのものの重量もとてつもないものになり、自らの重さに耐えられず途中で切れてしまうのだ。この課題に耐えられるだけの強度をもつ紐を作ることは、現在の科学では不可能である。最新のカーボンナノチューブ技術をもってしても24,000kmの長さがせいぜいなのだった。

「24,000km毎に接続施設を設けます。つまり地上400km、24,400km、最終施設は高度48,400km。一本の紐をただ伸ばすのでなく、2か所の中継点を設け、最終設備をこれまでの静止衛星高度よりも高い地点に置く。その設備重量がもたらす遠心力によって、宇宙エレベータの定点静止は充分に可能なのです」

デイヴィッドは新たな図を表示した。

「なるほど。外界側を重くすることで、静止点が地球に近くてもバランスが取れるという事か。ただ静止させるだけなら確かに可能かもしれないな。だが、従来の静止衛星軌道である36,000kmでさえ、とてつもない距離なのだぞ。そこからさらに12,400km。そんなに遠くに追いやられた飛行士は、どのようにして地上に戻って来るというのかね?エレベータで移動となれば、時速100キロで移動したとしても20日以上かかってしまう。ロケットを使うというならば、結局のところ、これまでの宇宙開発と何ら変わらないではないか」

物理学者の質問は続いた。

「戻る?何故そのような無駄なことをせねばならないのですか?暮らし続ければ良い。そこが彼らのフロンティアとなるのだから。地上に戻る必要など、ない」

国際会議場は静まり返った。会議に参加する学者全員が理解していた。フロンティアの意味として最も相応しい訳語は、この場合、「墓場」となることを。そのため、あまりの衝撃に誰一人言葉を発することができなかったのだ。

「PROJECT BABEL、この計画にそう名付けました」

説明終了。そう言いたげに、デイヴィッドは大型スクリーンに映し出されていた資料を閉じた。

 会議終了後、デイヴィッドの周囲は人だかりとなった。取り囲むのは主に取材に来ていたマスコミの連中だった。彼らは世界中の人々に届けるにふさわしい世紀の大ニュースと大スターが、同時に誕生したのだと信じて疑わなかった。

「神の領域に足を踏み入れるつもりなのか?いや、それだけではない。彼は人を何だと考えているのだ」

足早に会場を後にする老物理学者は、怒りの言葉と深いため息を発した。しかし、後ろをついていく助手と数人の取り巻き科学者の耳以外に、その声が届くことはなかった。

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