本文
第一章 まずは朝の挨拶を。
私の朝は、外から玄関の鍵が閉まっているかどうかを確認することから始まる。
「また鍵かけないで寝てる」
ガラス窓の引き戸を横へずらし、なんの抵抗もなく私を出迎える家にため息が出る。正確には、家にではなくて、家主にだけど。
「おはようございまーす。お邪魔しまーす」
近所迷惑にならないように声を抑えながら、いまだに寝ているであろう家主の許可を勝手に取る。
靴を適当に脱ぎ捨てて、そのまま家に上がる。玄関先に一組だけ揃えられているスリッパはガン無視した。
手に持ったエコバッグの中身がガサガサと音を立てる。サンドイッチとおにぎりとミネラルウォーター。この家の近所のコンビニで買ったこれらは、今日は食べてもらえるだろうか。
今時珍しい、平屋の、いちばん奥の部屋。昼頃になると、日当たりがよくなって、昼寝にぴったりなのだという。その部屋の、いやこの家の家主の、普段の寝床はここだ。たまに、玄関先で毛布にくるまれて寝ていることはあるけれど。さっきの通り道でそのミノムシを見た覚えは、今日のところはない。
「ハルヒトさーん。朝ですよー」
ふすまにノックをして、声をかける。三秒待つ。十秒待つ。返事はなし。よくあること。
「入りまーす」
私は了承を聞かずに、部屋の中に入る。
踏み慣れない、柔らかい畳の感触とともに、少しかび臭い匂いがした。カーテンの隙間の光が、浮遊する埃をキラキラと反射する。
「……」
「……」
部屋にある、一組の布団。畳に直に敷かれてる。こんもりと山になっている掛け布団を私は揺すった。
「ハルヒトさーん。朝ですー。起きてくださーい」
もぞもぞうぞうぞ。
そんな音を立てるような緩慢な動きを、掛け布団の山がする。その動きもやがて止まった。
「……」
予想はしてた。よくあること。
それでも、ため息は吐くし。
最終手段を使わなくちゃいけないのは、それはもう、ねえ。
「……」
私は山の主の、おそらく頭があるところに顔を近づける。
喉の調子を整え、自己暗示をかけ、そして、先ほどの呼びかけよりも小さな声で呟く。
「ハル」
がばっと掛け布団がめくれ上がった。
中にいた家主が、私を大きく見開いた目で見てくる。
驚愕と期待。
そんな目の色だった。
それが次第に、
落胆と諦観。
それらに変わる。
もう何回目だろうか。何度見ても、あまり慣れない。
私よりも三つ上の、去年入社式で着たという新卒スーツがよく似合った頃よりも大分細くなったその体は、薄くて消えそうに見えた。
少しだけ苦笑いをして、私は家主に呼びかける。
「おはようございます。ハルヒトさん」
家主――ハルヒトさんが、ぎこちなく私に笑顔を見せた。
「おはよう。……ツムギちゃん」
ハルヒトが私の名前を言った。
私の、名前。
どうしてどうして。
どうして
寂しい。苦しい。辛い。いっそ楽になりたい。突き放したい。
酷い。酷い。
なんでどうして!
そんな癇癪めいた言葉を、本当は言いたいのかもしれない。
そんなことを考えつつも、私はニッコリと笑ってエコバッグを漁りながら話し始める。
「今日の朝ご飯は、サンドイッチとおにぎりとミネラルウォーターですよー。サンドイッチはBLTサンドで、おにぎりは新商品のわさび増量のピリ辛わさびおにぎりですよー。どうですか、食べられそうですか?」
「……」
しばらくの沈黙の後、ハルヒトがゆるゆるとおにぎりを指さす。お祖父さんの形見だという、くたびれた夜着の袖が伸びた腕から滑る。
よかったね。今日は食べてもらえそうだよ。
「どうぞ」
「ありがとう……」
私はビニールに包まれたままのおにぎりを、ハルヒトさんの掌に乗せる。
海苔の巻かれていない、少しワサビの茎の緑が見えるおにぎり。
私が買ってくるおにぎりは、海苔が分離されているモノじゃなくて、海苔がもともと巻かれているモノか、そもそも海苔が巻かれていないモノだ。海苔が分離されているモノを買ってきたこともあるけれど、貼り付けるまでに海苔がボロボロになって落ちた。あれは切なかった。
「……」
ハルヒトさんがおにぎりのビニールを切った。すん、とむき出しになったおにぎりの匂いを嗅いで、私を見る。
しばらく自分でも切っていないのだろう。長くなった前髪の隙間から、私を見る。
迷子のような少々不安げな目で。
食べてもいいの? と問いかけるような目で。
「どうぞ」
私がそう促せば、ハルヒトさんは目線をおにぎりに戻して、ゆっくりとおにぎりを囓った。私の一口よりも、一回りくらい大きな一口の隙間がおにぎりに作られる。
しばらくハルヒトさんから咀嚼の音が聞こえた。
もぐもぐ
もぐもぐ
も――
「あ゛……!」
ハルヒトさんが呻いた。鼻を摘まみながら口を塞ぎ、目をギュッと閉じる。
私は思った。ああ、よかった。効いてるんだ。さすが増量。
前まで味がしない、刺激が鈍いと言っていたのに。
「お水、いります?」
ハルヒトさんがゆっくりとだけれど、こくりこくりと頷いた。
ミネラルウォーターの、未開封のキャップに力を入れる。カチリといい音を立たせて、半分だけ開けておく。
「どうぞ」
「……ありがとう」
消え入りそうな声でハルヒトさんがお礼を言った。たぶん辛さを我慢しているんだろう。
食べかけのおにぎりを膝の上に置いて、ハルヒトさんはキャップを外す。辛いのを我慢している顔をしながら、ゆっくりと飲み口に唇を付けた。
喉仏が動くとともに、喉が鳴る。
私のよりも目立つ、でっぱりだ。
「……うー」
ミネラルウォーターから外した口が、小さな呻き声を出す。ハルヒトさんが鼻をすんと鳴らして、涙目になりかけの目で膝に置いたおにぎりを見ている。
「すみません。そんなに辛くなってるとは思わなくて。サンドイッチに替えますか? 食べかけは、私が食べますので」
私は片手にサンドイッチを、もう片方は空の手でハルヒトさんに差し出す。
「……」
ハルヒトさんが無言でサンドイッチを手に取る。そのサンドイッチを自分の傍らに置いて、膝の上のおにぎりを私の空の手に置いた。
そのまま、手を引っ込めると思っていた。
「……」
「……」
ハルヒトさんの、引っ込めなかった手が、私の指先をやんわりと掴んだ。
細いのに、骨の太さが、皮膚の厚さが、男の人だと感じさせる。
いくらでも外せられるような、振り払えるような、そんな強さだ。女の私でも容易い。
そんな強さがいっそ、かわいそうに、じれったいように、思えた。
「どうか、しました?」
私は訊ねる。明日の天気はどんなかなとでも言うような、気軽さを装って。内心のそわそわは、気づかれちゃいけない。動揺を見せたら、ハルヒトさんはきっと黙ってしまう。優しすぎる人だから。怖がりな人だから。
「……ツムギちゃん」
「はい」
「……その」
「なーんですか?」
私はニコニコと微笑みながら先を促す。大丈夫と。伝えても平気と。言外に、ハルヒトさんに思わせる。
ハルヒトさんが息を吸って、私に縋るような目をして、口を開きかけた。
「♪~」
私の服のポケットに入っていたスマホが、ハルヒトさんの口を閉ざさせた。明るいアップテンポの、ライブで聴いたら熱狂する曲が、私たちの静かだった空間に場違いに存在を主張する。
うざったいような、ありがたいような音楽を流すスマホを、私は手を繋いだまま、もう片方の手でポケットから取り出す。
着信。
着信の相手。
予想してた相手の名前を見てから、私は目と口でハルヒトさんに了承を得る。
通話ボタンを押した。
「もしもしー? 今日は二限目からだよねー。知ってるよー。これから行くもん。遅刻しないよー心配性ー」
声は聞こえない。少しだけ、雑踏の音のようなモノが聞こえる。電話の向こうは、どこの町だろうか。
私を外へ引き戻す電話の相手に、私は会話とは言えない会話を終わらせる。
「うん。連絡ありがとう。またねー」
スマホの通話ボタンを再び押し、ポケットに戻す。
ハルヒトさんの手は繋がれている。でも、少しだけ、震えている。
「……」
ハルヒトさんは俯いてしまった。黙ってしまった。何かが変わるチャンスを逃してしまった。
ありがたいやら、ありがたくないやら。
私もだけど。
「私、そろそろ行きますね」
「……うん」
「だんだん寒くなってきたので、あるなら羽織、着てください」
「……うん」
私はゆっくりと繋がれた手からすり抜けた。乗せられたおにぎりを包み込むように握る。
そのおにぎりを、ハルヒトさんが羨ましそうに見ているのには、気づかないフリをした。
「じゃあ、ハルヒトさん」
立ち上がった私に、座ったままのハルヒトさんが見上げる。上目遣いで。わさびでまだ潤んだ目で。
置いていかないで、と隠しているつもりの目の奥が叫んでる。
その目の奥に、私はニッコリと笑いかける。
「早く元気になりますように」
そんな言葉を告げ、私は部屋を出る。ドアを閉じれば、部屋の中の音だけ小さく聞こえる。何かを堪えるような声と、布団が潰されるような音。
「……」
私は首をゆるく振ってから、廊下を歩く。家を出るときも、揃えられているスリッパはガン無視した。
玄関を開ければ、外気が肌に当たる。少し前までは、汗をかくほどに暑かったのに、風もないのにどこかにあるキンモクセイの匂いがする。
季節は移ろう。時間は流れる。私やハルヒトさん、多分その他の何の力のない人間にも、干渉することのできない、自然の摂理。
桜の頃のことを、昨日のことのように思い出せるのに。
「……」
握って出てきた手の中に鎮座する、食べかけのおにぎり。食べかけだ。年上の異性の。ためらいはある。でもだからって、捨てられない。
『食べ物を粗末にしちゃいけないって普通なことでしょ?』
そうだね、と幼少期の出来事に応えてから、私はおにぎりを口にした。
思い切って。一口で全部。
だから――。
「うぎゃぁ……!」
鼻の奥が痛んだのは、これのせいだ。
――――
私にはお姉ちゃんがいた。
正しくは、お姉ちゃんがいるだけれど。今は気軽に会えなくなっている。
名前はユカ。
小学校までは、お姉ちゃんって呼んでいた。でも、私が中学生になった頃、ちょっと大人になりたくて、ユカちゃんって呼ぶようになった。あんまり変わらなかったけど。
歳が三つだけ違うユカちゃんだけど、幼少期から私にはとても大きく見えた。
私の嫌いなピーマンをお母さんにバレないようにこっそり食べてくれた。
勉強の成績はクラス上位だった。
運動部に所属して、県大会で入賞してた。
私のちょっとした悩みも、親身になって聞いてくれた。
たまには喧嘩もしたけれど、仲直りのケーキを一緒に食べて笑いあった。
そんなユカちゃんにも彼氏は今まで何人もいた。
中学高校大学で。とっかえひっかえって感じじゃなくて、それ相応に、節度を持って。だから、歴代彼氏との関係がこじれて、双方の親が出てくるようなことはなかった。
ユカちゃんとハルヒトさんが付き合いだしたのは、ユカちゃんから話を聞く限りだとユカちゃんとハルヒトさんが大学二年生になった頃。
今から、四年くらい前に聞いた話。
「サークルの成人済みメンバーでの飲み会で介抱してくれたからって単純な理由らしいよ」
お酒は二十歳になってから、酒は飲んでも飲まれるな、ね。
ユカちゃんが楽しそうにその時のことを語って、まだ高校二年生の未成年だった私にお酒の教訓を口にする。私は楽しそうなユカちゃんをニコニコと眺めながら、甘いクッキーを欠片が零れ落ちないように齧った。ユカちゃんの部屋の床には、真っ白なラグが敷かれているから、汚しちゃいけないと思ってちょっぴり緊張する。
女の子の楽しい温かなお茶会に、恋の話はよく弾む。
「その単純な理由で、ユカちゃんはその人と付き合うのオッケーしたの?」
「んー。そうねえ。それだけじゃないかなあ」
ユカちゃんが少し困ったように笑いながら、手に持ったティーカップを弄ぶように揺らす。
歴代の彼氏の馴れ初めは、その当時でも、ストレートに簡潔に言っていたお姉ちゃんが言い淀むのは珍しいと思った。
「んー。なんか惹かれたの」
「イケメン高身長なの?」
「うーん。特別イケメンって感じではないかな。身長も、パンプス履いた日本の平均身長の私よりちょっと高いくらい」
「えー普通。じゃあ、どうしてー?」
付き合った理由が全然分からないことに、私はむーっと不満を隠さない顔をする。付き合い、馴れ初め、惚気、それを聞くのがお茶会の醍醐味なのに。
私の顔を見て、楽しそうに目を細めたユカちゃんが、揺らすのを止めたティーカップの底に視線を向けた。
そのときのユカちゃんの表情が、私の見たことのないモノで、なんだかドキリとした。例えるなら、温かくなるような、そわそわするような、不思議な表情。悪い感じはしないけど。
その動揺を誤魔化すため、私は小さめのクッキーを数個、一口で頬張ってもっもっと甘さを噛み締めた。
ユカちゃんは視線を動かさなかったから、私の行動をたぶん気づいていない。
「んー……。強いてあげるなら、寂しそうだったから、かな」
「ん。寂しそう?」
クッキーを呑み込んでから私が聞けば、見慣れた表情になったユカちゃんがティーポットを持って、自分のティーカップへ紅茶を注いだ。
「ツムも紅茶いる?」
「うん。ありがとう。ちょうだい」
私はぺかーと笑って、ユカちゃんの申し出に甘える。私のティーカップに注がれる湯気の立つ琥珀色がとっても綺麗に見えた。
「ぼっち、って感じじゃないの。サークルの人と話してるところは見るし、変な噂も聞かないし。
でも、介抱したとき、水をちびちび飲んでる目が、寂しそうだった」
酔ってて眠かっただけかもしれないけどね、とユカちゃんは苦笑してティーカップに口を付けた。
私もティーカップに口を付け、ちょっとだけ熱い紅茶を火傷しないように小さく飲んだ。
「それが理由なの?」
「そうよ。あんまり面白くなかった?」
「んー……。今はよく分かんないだけで、お酒飲めるようになったら、分かるかな?」
「ふふ、どうかな。意外とすぐに分かるようになるんじゃない?」
「えー? そうは思えないけどー」
「ツムがお酒飲める年齢になったら、一緒に飲もう?」
うん! と返事をした私に、ユカちゃんが嬉しそうに笑う。
ユカちゃんと付き合うことになった人
ユカちゃんに不思議な表情をさせた、寂しそうな人。
私のハルヒトさんへの認識はそんな感じだった。
どういう人なんだろう、というちょっとだけの興味を抱くだけだった。
―――
第二章 夏の残滓と、迷子のご注意
時刻は、九時五四分。
平日、金曜日。
天気は、雲はあるけど晴れ。
気温は、涼しいと感じられる心地よさ。
キンモクセイの匂いが強い。
いざ!
「財布とスマホとエコバッグ、よし」
「……」
「戸締まりも、よし」
「……」
私は玄関の前で指さし確認をひとつひとつしてから、最後に隣にいるハルヒトさんへ体を向けて、手を高く上げた。
「それでは、食料調達のため、近所のスーパーへ出発します!」
にへら、と何でもないように、気負わなくていいですよと言うように、ハルヒトさんに笑いかける。
今時、コンビニで何でも買えるけれど、限度はある。あと金銭面でも、限度がある。
やつれていた時より肉がついたと言っても、去年買ったらしい私服にまだ余裕がある。ぶかぶか気味だったのを、小物を使って工夫した。
道行く人の存在が気にならないように帽子を被ってもらうのも、その工夫の一つだ。
「……ツムギちゃん」
「はい。なんでしょう?」
私の指さし確認を黙って見ていたハルヒトさんが、言いづらそうに私を呼んだ。足元の落ち葉が、風で乾いた音を立てた。その音に、かき消されてしまいそうな声だったけれど、私はバッチリ聞いた。
聞こえています。
ハルヒトさんが言いたいことは、分かっていた。家を出るまでに三回は同じやり取りをした。
だから、動揺せずに、堂々と続きを待った。
「……その、雨、降るかもしれないし、」
「天気予報じゃ、雨は降らないそうですよ。外れちゃうかもしれないですけど、傘買えば大丈夫です。私がお金払いますから」
「……まだ、食料、冷蔵庫にあるし、」
「ほとんど調味料でしたよ。お肉食べましょう。あとお野菜も」
「……その、……あの、……」
「はい」
ハルヒトさんが外出拒否の言い訳をしどろもどろしながら話すのを、私はニッコリバッサリ却下しながら、言い終えるまで付き合った。
ハルヒトさんは外に出られない訳じゃない。家の敷地の、物干し竿に洗濯物をかけることはできるし、たまに近所を短時間だけ散歩できる。
理由の一つに思い当たるのが、一ヶ月ほど前、まだ冷房がないとしんどかった頃。
※
その日は丁度、女の宿命による体調不良と、熱中症注意警報が重なった。
日が高い時に、私がスーパーで買い物を終えて、ハルヒトさんの家まで歩いていた。
頭がくらくらになるダブルパンチによって、ハルヒトさんの家の玄関に、買ったものを入れたエコバッグをそっと置いてから、私は静かに倒れた。
その時も揃えられていたスリッパを避けて。
帰ってきた音を聞いたハルヒトさんが、玄関に倒れている私の、髪で見えなくなっていた顔に向かって、
「ユカ?!」
ここにいない人の名前を、スリッパを履くはずの人の名前を呼んで、板の間の廊下を大きな音を立てて私に近づいた。
ゆっくりと歩いている所ばっかり見ていたから、早足で歩くの、見てみたかったな。
そんなことを思っていると、ハルヒトさんの気配が私のすぐ近くで止まった。
「ユ――」
私の頭上で息が止まった音が聞こえた。
そのあとの記憶は曖昧で、気がついた時には、小さな床置き扇風機がくるくると風を私に送っていた。私の家では嗅ぐことのない、お線香のさみしい匂いと一緒に。
「……? ……ぁ゛?」
唇と口の中に、うっすらと残った塩の粒子の存在と刺激の驚きは、今も覚えている。
※
「……」
「……」
外出拒否の理由の明言はお互いしない。
すればいいのに、と少なくとも私は自嘲しながら思う。
明言をしたら、芋づる式に思い出すだろうから。
「……」
私のことを心配して、外出拒否をしてくれているのかもしれない。
自惚れ、だろうか。
単に行きたくないだけかもしれない。そんな日なだけなのかもしれない。ハルヒトさんの背後に見える広葉樹の葉っぱが、いつの間にか色を変えていったみたいに。いろいろな要因が重なって、今に気持ちに至っているのかもしれない。
どうしてと、理由を聞く勇気はない。
あの日のことを、ここに出してはいけない。
なぜなら私は、気づいてはいけないから。
私が、ハルヒトさんに、ユカちゃんを思い出させる要因になっていることを、私は気づいてはいけない。
気づいていることを、ハルヒトさんが知ったなら、きっと私は嫌われてしまうから。
私を見ながらユカちゃんを、無自覚ではなく、意識的に見てしまうだろうから。
そうなったら、
私は、すごく、
さびしい。
「ハルヒトさん」
新しい言い訳が思いつかなくて、あたふたしているハルヒトさんに私は笑いかける。
「今日は、涼しいですよ」
だから熱中症にはなりませんよ、と言外に伝える。
「ハルヒトさんが一緒だと、私、助かります。荷物持ちとか」
一緒に行って、一緒に帰って。
私をユカちゃんだと勘違いする隙を与えない。
「ハルヒトさん」
ハルヒトさん。
「私が迷子にならないように、」
あなたが間違うことのないように、
「私のこと、見失わないでくださいね」
口にした言葉と、秘めたままの言葉が重なる。重なった時に出た、滲んだ音が頭に響く。少し痛い。
その痛みをしまい込んで、家を出たときと同じように、私はにへら、と笑う。何でもないように。
「……」
私の言葉を、ハルヒトさんは黙ったまま聞いていた。帽子は、つばがあって下に傾いてるから、ハルヒトさんの表情はよく見えない。もごもごしていた唇が静かになっているのが見えるだけ。
ここまで来て、それでも外出拒否をするようだったら、私は折れるつもりだった。そうですかー、そこまで言うなら、仕方ないですね、じゃあ家に入りましょうか、って。
あっけらかんと、残念がらずに。ハルヒトさんが申し訳ないと、気負わないで済むように。
淡々と、静かに、穏やかに。
行かないと言うか、行くと言うかの二者択一を待った。
その、二択だけ。
「……」
「……」
私が最初に高く上げた方の、今は下ろされてガラ空きの手を、ハルヒトさんの指が控えめに絡んだのは、私の思った選択肢にはなかった。
驚きすぎて固まって良かった。驚いて私が手を動かしてしまったら、ハルヒトさんは手を引っ込めてしまっただろうから。
申し訳ないような、傷付いてしまったような、そんな顔をして。そんな顔を、被った帽子で隠すかもしれないけれど。
「……その」
ハルヒトさんが視線を足元から私へと変える。
帽子のつばの陰で、表情が少し見えづらいけれど、さっきよりかはよく見えた。
不安だけれど、怖いけれど、それでも負けたくない。
そんな、弱々しい強さが見えた。
「手、繋いだら、見失わない、から……」
たどたどしく伝えてきた。
絡んだきた指が震えてきた。
「だから……」
「ありがとうございます」
私は理由を続けようとするハルヒトさんに笑いかける。
ハルヒトさんの行動に驚いたけど、ハルヒトさんから滲み出た動揺に、固まった体も思考も動き出せた。
優しい人。それから、怖がりな人。
そんな人。困った人。
私が必死に隠しているハルヒトさんへの好意を、あっさり引きずり出してしまえそうなくらい、困った人。
「じゃあ、お言葉に甘えまして。手、繋いでいきましょう」
震えているハルヒトさんの絡んだ指を、私はゆっくりと絡み返した。震えを宥めるように、ほんの少しだけ、触れるか触れないかの近さで、二度撫でる。
人畜無害の、純真無垢な顔で笑って、ハルヒトさんの一瞬だけ震えた肩に気づかないフリをした。
――――
第四章断片 言えた本音。言えない本音。
ずっと内緒にしていたことが、私にはある。
ユカちゃんのこと。ハルヒトさんのこと。私自身のこと。
私はユカちゃんが好き。優しくて、あったかくて、憧れの存在。ユカちゃんは幸せになると何の疑問も持たずに思っていた。
半年前のあの頃、桜のつぼみがまだ硬かった頃までは。
その頃、ユカちゃんは、ハルヒトさんからプロポーズをされ、はいと返事をしたそうだ。役所から婚姻届を受け取り、必要箇所に名前を書く。その書くのところで、ユカちゃんは固まってしまったそうだ。
全部、ユカちゃんから聞いた話。その時の会話や状況は、直接目に、耳に、したわけじゃない。
だから、これも、ユカちゃんから聞いた話。
「ハルは私のこと好きなんじゃない。好きに甘えられる存在が欲しいだけなの。ぬいぐるみと一緒。私の意思も、感情も、ハルにとっては邪魔なだけなの。
いや……。こんなのいやぁ……」
いわゆるマリッジブルーもあったのかもしれない。
あんなに取り乱して泣くユカちゃんを見るのは初めてだった。
私の知らないユカちゃんの姿。
見たときは、驚いたし、泣いているユカちゃんに悲しくなった。
だから、幸せになってほしいって、心から思った。
私の誕生日が、もう少し早ければよかった。
お酒、最初はユカちゃんと一緒に飲みたかったな。
――――
第五章 欲しいものなのに、それは遠くへ行っていく。
ユカちゃんがハルヒトさんからも、私たち家族の前からも姿を隠すことになった三日後に、私は一人、ハルヒトさんの家を訪れた。
玄関先に、昨日の昼間に開花宣言された桜の花びらが薄い絨毯を作っている。踏みつけられた跡のない、ふわふわとしたピンクが、私に踏みつけさせるのをためらわさせた。
帰れ。お前が来ていいところじゃない。
そう言われているような気がした。
「……」
小さく息を吸って、私は絨毯を踏んだ。踏むと同時に外壁にくっついたインターホンを押した。
ピンポーン
軽快な音が家の中から聞こえた。
待つ。しばし待つ。
近づいてくるであろう足音が聞こえない。
留守だろうか。もしかしたら居留守を使われてるかもしれない。
少々がっかりして、帰ろうと爪先を軸に、振り返る。
そのあとは、桜の花びらを、踏みつけたせいだろう。
綺麗なままにしなかったせいだろう。
「うあ!」
足が滑った。滑った拍子に、腕がバランスをとろうと宙を暴れる。暴れた拍子に、指先が玄関の引き戸の出っ張りに引っかかる。
引っかかった拍子に。
引き戸が滑らかな音を立てて横に動いた。
「…………?」
転びかけた緊張と、留まれた安堵と、すんなりと開いてしまった玄関への驚きで、しばらく状況が理解できなかった。変な姿勢で、多分呆けた顔をしてた。
姿勢を楽にして、足元を気にしながら、私は玄関の先へ歩いた。
家の中は暗かった。カーテンも窓も閉め切っているのだろうか。春先の冷たい空気がどこか澱んでいる気がした。
「……あ」
引き戸を閉め、ごめんくださいと言おうと口を開いたとき、玄関を、上がったところの隅っこの所に、塊があるのを見つけた。
柄的に、掛け布団だろうか。それがこんもりと、丸まるようにそこにある。
じっくり見て、それが息づくように、膨らんでは萎むを規則正しく繰り返していることに気づく。
「……」
私は靴を履いたまま、膝をついて、息づくそれに手を伸ばす。
手を伸ばして、指先が、手のひらが、その中の温度を感じた。
温かかった。
「……」
中身は、予想がついている。こんな所、私に見られたくなかったかもしれない。何も見なかったことにして、立ち上がって、玄関を閉めて、振り返らずに、帰った方がいいのかもしれない。
ただ、私の膝が、玄関の床の冷たさを感じている。柔らかく刺すような冷たさ。我慢できないほどではないけれど、長時間感じるには辛い。
だから、そんな冷たさを、掛け布団で堪えていた人を見ないふりは、私にはできなかった。
「……ハルヒ――」
中の人の名前を呼ぶ。ハルヒトさんと。私が普段から呼んでいた名称。愛称ではない。それを使っていた人は、私の前からいなくなってしまった。
それなのに。
「ユカ……?!」
がばりと掛け布団から中の人が飛び出した。
最後に会ったのは七日前。
幸せいっぱいって感じにふやふやして緩かった頬が、痩せてこわばっている。
きらきらと輝かしい未来を期待していた目が、血走っている。
これからのことを嬉しそうに語った潤っていた唇が、ガサガサなかさぶたを作っている。
「ユカ、ユカ、あのね、俺ちゃんとするから、ユカのこと大事にするから、ちゃんとちゃんとするから、だから、だからだから」
今まで間違えなかった私の名前を、呼び間違えている。
「ハルにとって、私の感情は邪魔なだけなの」
ユカちゃんがそう言った理由が、なんとなくだけれど、分かった。
ハルヒトさんは、受け止めてほしいと思うばっかりで、逆をしようとしてくれない。
ユカちゃんから聞きかじった、ハルヒトさんの境遇を考えれば、そうなっても仕方ないのかもしれない。
寂しくて、その寂しさを埋めてほしい。
そんな気持ち。
仕方ないのかもしれない。
でも、だけど、
許していいとは、思えない。
「ユカあのね俺――」
「ハルヒトさん」
私はハルヒトさんの名前を呼んだ。静かに、強く。焦点が少し合わない目をしっかり見つめて。
「ハルヒトさん」
私はもう一度呼んだ。
ゆっくりと、ハルヒトさんの目の焦点が合ってくる。それと同時に、開いていた唇がわなないた。
今、私はハルヒトさんがどんな気持ちなのか分からない。好きな人だと思っていたのに、別人だったことに腹が立っているのか。好きな人がいなくなってしまって悲しいのか。はたまた別のことなのか。
分からない。分からないから、今、確実に言える言葉を口にする。
「おはようございます。ハルヒトさん」
にっこりと、なんでもないふうに、朝の挨拶をした。
②おはようございます、幸せに。 もおち @Sakaki_Akira
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
乙女ゲームと私/もおち
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 7話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます