浅きかなしみ
無頼庵主人
浅きかなしみ
終業の鐘が鳴る。
その日やるべき仕事を、時間通りにきっちりと終え、パソコンの電源をおとす。
まだ業務に励む同僚たちもいるが、手伝うほどのことでもない。打刻をしてオフィスを出る。今週は一度も残業をしていない。繁忙期のあとの、閑散とした時期だった。
エレベーターがとまり、乗り込む。
彼一人だけの空間であった。
スマホを取り出して、画面を点すが誰からも連絡はない。花の金曜日、という言葉はいつしか彼にとって無縁のものとなっていた。
彼は一つのチャットをひらき、自分自身が送ったメッセージをみた。相手がすでに読んだことを示す既読マークがついていたが、返信はない。彼の知人はそんな人々ばかりである。それは彼の性格に難があるというよりも、彼らにとって彼のことは自分の生活の外にあるに過ぎなかった。
一体一言二言の返事に一日二日かかるものだろうか。彼はそれを思うと、おのれが誰にとっても八番目ほどの友人であることが自覚させられて、孤独感を深めるのであった。
エレベーターを降り、ビルを出る。
繁華街をとおり、駅へとむかう。
大学生くらいのグループ、ほろよいのサラリーマン三人組、うるわしきカップル……。
駅に着けば、家族連れや友だちと遊びながら帰る高校生たち。
彼はまっすぐと改札へむかうスーツ姿のおじさんたちにまぎれてすすむ。この人たちは家に帰れば家族があるだろう。だが、今だけは一人きりである。なんの慰めにもならないが彼はそんなことを考えた。
壊れたフライパン、それを新調すべく通販サイトをみているうちに、最寄り駅へと到着した。けっきょく何を買えばいいかはわからなかった。
駅を出ると彼は文房具屋に立ち寄った。
大学時代の後輩が、先日出産したとの連絡があったからである。といっても、本人から聞いたのではなく、他の後輩から話のついでに聞いたのである。
そのような希薄なかんけいで、御祝儀は必要ないだろう。そう思いもしたが、しかし、それができない律儀さが彼にはある。
店先にならぶ御祝儀袋から中くらいのものを選ぶとそれを買った。
フライパンが壊れているので弁当を買って帰る。いつものスーパー。並んでいる弁当はいつも同じものである。もう食べたいものなどありはしなかった。そうして今週はずっと海苔弁を夕餉とし、今夜もそうするのであった。
スーパーを出ると、サイレンの音が非常に近くから聞こえてきた。パトカーに救急車。駅の放送もさわがしい。どうやら人身事故があったらしい。
彼は帰路は線路伝いにある。
ときおり、騒がしい駅の方を振り返りながら彼はあるいた。
そうして不注意で前方から来る自転車に気がつくのが遅くなった。
彼はあわてて路肩によけたが、弁当がブロックにあたって、袋の中でこぼれた。
彼は何も言わず、雲にかすむ月をながめながら家に帰った。
鍵をあけ、玄関をくぐる。
ただいま、は言わない。ただ、暗い部屋だけが待っている。
電気をつけ、テーブルの上に弁当をひろげる。こぼれた分は弁当のふたにのせる。
もはやあたためるのも億劫になり、彼は冷たいままに食べはじめた。
箸を持つ手に少しの痛みが走った。
みれば、浅い傷が手にいくつもついている。
さっき道でよけたときに生け垣で切ったのだろう。
絆創膏を貼るほどでもない傷。だが、こうした浅い傷が積み重なって自分を苦しめている。彼はそんなことを考えながら冷や飯を口に押し込むと、目元からあふれてきたものを拭った。
(おわり)
浅きかなしみ 無頼庵主人 @owner-of-brian
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます