人魚は今も泳ぐ

kou

人魚は今も泳ぐ

 海は夕暮れ時を迎えていた。

 コンクリートの防波堤で、釣り竿を垂れている釣り人の姿があった。

 大学生の古谷ふるやりょうは、先刻から何度となく餌をつけ直しては、糸を垂らしていたのだが、どうにも当りが来ないのだ。

 陵は再び餌をつけてみる。

 結果は同じであった。

 そして、次の瞬間、何か大きな力によって自分の身体が引っ張られるのを感じた。それはまるで見えない腕にでも掴まれたかのような感覚だった。

 とてつもない大きい当たりに、陵の口元に笑みが浮かぶ。

 彼は素早く立ち上がり、両手を使って竿を握った。海面上に出ている浮きが大きく揺れている。

 この引きの強さは間違いない。

 大物がかかったのだ。

 彼は渾身の力を込め、海中に引き込まれまいとした。

 感覚からして50cmオーバーの大物だ。

 針が刺さった状態を維持する為に陵は、竿を立てて曲げた状態にした。

 こうすることで、魚を逃さない状態にすると共に、引き寄せる効果もある。竿は曲がることで魚の力を吸収する仕組みを持っているからだ。

 防波堤の下で魚は暴れ続けている。

 陵は必死になって耐え続けた。

 ついに魚の動きが止まった。

 防波堤は絶壁の作りになっているため下まで降りていけない。陵はカツオの一本釣りの要領で、竿を立てたまま堤防の上に引き上げた。

 大きな影が陵の目の前に現れ宙を飛ぶと、防波堤の上に落ちた。

「やった!」

 それは体長60cm近い巨大な魚であった。

 白銀色に輝く鱗に覆われ、尾びれには青く光る美しいヒレがある。

 鯛の仲間であろう。

 大きさといい形といい申し分のない大物である。

 陵は急いで魚を取り押さえようと近づいた瞬間、その異様さに大物を釣り上げたという喜びを忘れてしまった。

 なぜならば、その魚には顔があったからだ。

 いや、正確に言えば猿か人間に似た顔がだ。

 二つの目。

 二つの耳。

 鼻には二つの穴。

 額には小さな角らしきものが二つ。

 頭頂部からは髪も生えていた。

 口にはノコギリにも似た細かい歯が見えていた。

 人面魚とでも言うべき様相の魚に、陵は言葉を失ってしまった。

 陵の姿に反応したのか、魚は目玉を動かして陵に視線を向ける。

 そして、陵は耳を疑った。

 なぜなら、魚が声を発したからだ。

 

 Iya、iyaa……。


 と。

 まるで人間の様に。

 あまりの気味の悪さに鳥肌が立つ。

 これは絶対に釣ってはいけない種類のものだったのだ。

 そんな思いが脳裏に浮かぶ。

 陵は恐ろしさの余り、その場に尻餅をついてしまう。

 すると、陵は楽しそうな声を聞いた。

 顔を向けると、一人の老人が立っていた。

 老人は、魚を懐かしそうに見る。

「珍しいものを釣られましたな」

 陵はその口調から悪い人物ではないと判断し、話しかけた。

「知っているの?」

 老人は笑いながら答える。

「人魚じゃ」

 人魚。

 日本古来にある人魚の姿は、西洋に伝わる美しい女性の上半身を持つ生き物とはかなり異なる。魚の胴体に人間の顔を持つ、人面魚とでも言うべき姿をしていた。

 日本における人魚とは、単なる想像上の産物や船乗りの与太話などではなく、海の現実だった。漁師たちは、それを日常生活の中に受け入れ、16~19世紀にかけては特に奇異な出来事とはみなされなかった。

 1929年、高知県宿毛の漁師が人間の頭を持つ魚のような生き物を捕らえたが、網を破って逃げてしまった。第二次世界大戦中も日本の領海、特に沖縄の温かい海で多くの目撃談が報告された。日本海軍が人魚を銃殺したという記録すらある。

「じいちゃんが釣ってきた人魚を食わしてもろうたもんじゃ」

 老人は笑う。

 陵は目の前の光景を信じたくはなかった。

「この人魚、儂に売ってくれんかね?」

 陵は首を横に振る。

「お金は要りません。そのまま差し上げます」

 老人は驚いた顔し、心地良く笑う。

 陵は糸を切って買い物袋を老人に差し出すと、逃げるようにその場を後にしていた。

 老人が呼び止める。

「良かったら家に来んかね。ごちそうするよ」

 老人の善意に、陵は返事をすることもなく走り去っていた。

 数日後。

 陵は、早朝から釣りに出ていた。

 あの日以来、陵は釣りに行くのをやめていた。

 だが、どうしても釣りに行きたい気持ちが抑えきれず、彼は再び釣り場へと足を運んでしまった。

 以前と同じだ。

 何も変わらない。

 なのに何故だろう。何かが違う気がした。

 心が落ち着かないのだ。

 陵は餌をつけ終えると海に放す。

 水面に浮きが出ると同時に仕掛けを投げ入れる。

また同じ事を繰り返す。

 しかし、一向に当たりがない。

 いつもならば、そろそろかかっても良い頃だ。

 それとも、もう潮の流れが変わったのか。

 その時、陵は海に人の顔を見た。

 海水浴で泳いでいるのではない。

 魚が人間の顔を持っていた。

 人魚だ。

 しかも、その顔は、陵が人魚を譲り渡した老人のものであった。

 人魚を食べた者は不老不死になる伝承もあるが、若狭国の伝承には、人魚の肉を食べた者は人魚になってしまうと、古くから言い伝えがある。

 陵は、その日の内に釣り道具を売払い、二度と釣りをすることは無かった。

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