【完結】現在(エピローグ)

「え……」


 知らなかった。いや、知りたくもなかった。


 こちらに来てしばらくは、小駒らが私たちを追いかけてくるのではないかと気が気でなかった。あるいは、本島の一件を警察に通報し、私や永遠を指名手配させるという事も考えられた。


 だが、実際には何も起こらなかった。


 井口さんが見つけてくれたアパートに住み、同じく井口さんの伝手で入った居酒屋で働く。しばらく働き口に恵まれなかった永遠も、この施設の職員にしてもらってからは、片道三十分のバス通勤に文句をいうこともなく、真面目に勤務していた。


 小駒の、あるいはオウルの影は、逆に不気味なほど、見られなかったのだ。


 全く知らない、と正直に答えると、井口さんは訳知り顔で頷いた。


「俺はあんたらのことがあるから、ずっと調べ続けてた。まあ、新聞にもネットにも出ない話だから、俺みたいな立場の人間じゃないと知りようがないんだけどな。小夜ちゃん、聞きたいか?」


 怖くないと言ったら嘘になる。それに、どんな話を聞いても、不安が消えるわけでもないだろう。だが私は頷いた。永遠を守っていく為には、情報を得なければならない。


「結論から言うと、オウルはなくなった」


「──え?」


「いや、なくなったと言っても、施設自体がなくなったわけじゃない。要するに、あそこを運営していた法人が解散して、別の法人が運営を引き継いだ、ってことだ。いや、引き継いだっていう表現はアンフェアかな。要はな、ぶっ潰したんだよ。善意の法人乗っ取りをやったわけだ」


 ぶっ潰した。


 オウルは、なくなった。


 善意のもとに、別の法人が施設を乗っ取った。


 そんな事が本当に可能なのか。だが、その具体的な過程よりも、気になることがある。


「利用者さんはどうなったんですか。それに、職員たちも」


 頭の中に、様々な人間の顔が浮かぶ。


 まずは当然、父や母だ。母はオウルの入所者で、父もオウルの職員になったと言っていた。


 それから自分が生徒として育てた砂山や徳武、坪家といった面々。勇太や磯野といった職員。


 そして──


「基本的には、皆そのままあそこで過ごしてるよ。小夜ちゃんは了解しているだろうが、彼らは皆、強いマインドコントロール状態にあった。例の狂ったルールを、自らの意思で受け入れていると思わされていたんだよ。けど、新しい施設長が熱い奴でな、彼らの洗脳を頑張って解いている。君のお母さんもかなりの状態にあったみたいだけど、徐々に回復しているそうだよ。最近は、あんたに対する謝罪のようなことも口にしているらしい」


 なぜそんなことまで知っているのか、と驚いていると、「俺、その施設長と昔なじみなんだよ。毎週電話で情報共有してくれるんだ」と井口さんは種明かしをした。


「あの……父は、父はどうなったんですか」


 父もまた、小駒の支配下にあった。退職金や自宅はどうなったのだろう。不安がよぎる。


「ああ、お父さんも無事だ。今は家に戻って、一般企業で働いている。小夜ちゃんにとっちゃ皮肉に聞こえるかもしれないが、お父さんは今回の諸々で精神障害を患って、そのおかげで再就職できたのさ。障害者枠でね。ただ、やっぱり仕事が好きなんだろうな、就職してからはかなり調子がよくなっているみたいだよ」


「あの、じゃあ、所長は……鎌田カルチャーセンターの」


「ああ、永遠の叔父さんだろ。ちょっとおかしくなってたが、カルチャーセンター再建に向けて頑張ってる。強い人なんだろう、大丈夫だよ」


「そう……ですか。良かった……」


「その所長、小夜ちゃんと連絡を取りたがっているようだが、もちろんここにいるなんてことは伝えていない。俺が小夜ちゃんたちの了解なしにバラすことはねえから安心してくれ。いや、今の時点では、たとえ小夜ちゃんが了解しても止めるけど」


 井口さんの顔に、初めて迷いの表情が浮かんだ。「それは、なぜです」私が聞くと、苦しそうに目を閉じ、首を振る。


 そして、もうトピックスは一つしか無いことに、気付く。


 井口さんの情報網の凄さを私は既に認めていた。これだけ知っていて、その部分だけ抜けている事があるはずもない。


「言って下さい。お願いします」


 井口さんは坊主頭をボリボリと掻き、小さく頷いた。


「あいつは……小駒の野郎は、その法人乗っ取りの最中、誰にも見つからずに姿をくらました。結局、前と同じパターンってことだ」


「前と同じ?」


 私が言うと、井口さんは少し驚いた表情を見せる。


「あれ、知ってたんじゃねえのか? 永遠の親父が上げたスクープだぜ? あの時はちゃんと警察沙汰になって、まあ、結果的には証拠不十分で不起訴になったんだが、あいつは会社を畳み、姿を消した」


「あ……それってもしかして、監禁とか暴行とかをしてた会社の……」


 井口さんが頷く。そうだ。永遠がいつか言っていた。悪徳な訪問販売業者が、実は犯罪集団だったとかいう話だ。あの記事を書いたのは永遠の父親、葛城隆男だったのだ。


「で、まあその数年後、あいつはこの福祉業界に潜り込んだ。オウルみたいな山奥の施設を選んだのも、表舞台に立てない事情があったからだ」


 以前の私なら、信じられなかっただろう。あの穏やかで優しい小駒から、犯罪のにおいなど感じ取れなかった。


 だが、今なら何の違和感もない。その前の事件の時も、自ら手を下すことはせず、部下をコントロールし、思いのままに動かしていたに違いない。オウルでやっていたのと同じように。


「それで、あの人はいまどこに?」


 緊張を覚えながら聞くと、井口さんは首を振った。


「わからないんだよ。伝手をフル活用して探してるんだがな。事が事なんで、当然警察も動いてる。それでも見つからねえ。……まあ、別に奴一人で何ができるわけでもないだろうが、念のため今は、小夜ちゃんや永遠がここにいることは、できるだけ秘密にしておいた方がいい」


 私はうつむいて、目を閉じた。


 いろいろな事が一気に明らかになり、理解が追いつかない。


 だが、オウルがなくなり、井口さんの友達の法人がその立て直しに頑張ってくれていること、父や母も無事だということがわかり、ホッとした部分はある。


 小駒が消えたという件についても、確かに用心するに越したことはないが、ここでつつましく暮らしている限り、それほど危険はないように思える。


 だが、だからこそ、私は私の罪に向き合わなければならない。


 うつむいたまま黙っていると、井口さんが言った。


「まあ、何だ、あんたが大変だったってことは、俺も認めるよ」


 私は顔を上げる。どこか厳しい表情。私の気持ちがわかっているのだろう。


「お父ちゃんもお母ちゃんもおかしくされて……それにあんた自身も、随分なことをされた。そういう意味じゃあんたは被害者だ。自業自得だなんて、言うつもりはねえよ。でも──」


 そう。


 でも。


 胸が苦しくなる。


「あんたは間違いを犯した。永遠を、壊しちまった」


 私はまたうつむくことになった。目を閉じて、井口さんの言葉を受け止める。


 私は被害者などではない。ただ自分の幸せのために、必死になっていた。永遠を犠牲にしていいはずがない。永遠は私に呼び出され、何もわからないまま、洗浄指導を受けた。


 そして、一生消えない傷を、負った。


 数時間前、バルコニーで錯乱した永遠のことを考える。


 トリガーになったのは、ヘリコプターから聞こえてきたあの音声だ。


 同じ言葉の繰り返しに、永遠はあの日の洗浄指導を思い出したに違いない。本島が淡々と繰り返す、「なぜ許せないんですか」という言葉の壁に、その苦しさに、永遠は自分の思考の方を破壊することを選んだのだ。


「そうです。私のせいで永遠は、あんな風に……だから」


 私は顔を上げた。


「私が永遠を支えます。一生、どんなことがあっても、私が永遠のことを」


 それで自分の罪が消えるとは思えない。


 私は永遠の一生に、取り返しの付かないことをした。


 永遠の、あの懐っこい笑顔や、うるさい軽口は、二度と聞けないのかもしれない。


 私は、永遠を、殺したのだ。


 今までで最も生々しい罪悪感に、押しつぶされそうになる。


 私にできることがあるとすれば、この罪を一生忘れず、こうしてしっかりと向き合い続けることだけだ。


 そして、その償いとして、残りの人生を永遠のために使う。


 奥歯を噛み締め、今にも倒れそうになりながら、井口さんを睨むように見つめた。


「私が、永遠とわを、永遠えいえんに──」


 言葉が途切れる。もう嘘はない。永遠は私をずっと愛してくれていた。今度は私が、永遠を愛する番だ。


「永遠を永遠に、か。いいじゃねえか。覚えときな小夜ちゃん。そうやって誰かを想うことで、初めて人は〝自分の幸福〟っていう洗脳から解けていくんだよ」


 井口さんはそう言って袋から新しいせんべいを取り出し、半分に割った。


「自分の幸福っていう……洗脳?」


 私はその言葉に衝撃を覚え、聞き返した。


 井口さんは肩をすくめ、言う。


「だってそうだろう。自分は幸せにならなきゃいけない。そのために生まれてきたんだって、みな信じちまってるじゃねえか。さも、それが当たり前のことのようにな」


「だって……それは実際、そうじゃないですか」


 思わず言った。


 人が自分の幸福を信じ、それを求めるのは当然のことだ。


 私だってそうだ。ただ自分が幸せになることを願い、一生懸命生きてきただけだ。そう考えてハッとする。


 罪のない永遠を呼び出し、あんなことをしたのは、自分の幸福のためではなかったか。


「な。小夜ちゃんはもうわかってる。別に自分の幸福を追い求めるな、とは言わねえよ。でもそれに囚われ過ぎれば、行き着く先は狂気だ。それを手に入れるため、守るためなら、人はどれだけでも非情になれる」


「……」


 何も言えない。


 私自身がそうだったのだ。


 すがるような気持ちで井口さんを見た。


「そんな顔するなって」


 井口さんは笑って言って、半分になったせんべいの片方を私に差し出した。


「人なんて皆、最初からどっか欠けてんだ。障害者とか健常者とかそういう話じゃなくてな。それなのに完璧な何かを求めちまう。自分の幸福っていう洗脳に自らかかっちまう」


 私はせんべいを受け取った。歪に割れ、中の白い部分が顕になった半分のせんべい。


「幸福って……一体何なんでしょうね」


 呟くように言うと、井口さんは顔をしかめ、丸刈りの頭をボリボリと掻く。


「知らねえよそんなの。こんなチンピラ親父じゃなく、どっかの偉い宗教家にでも聞けよ」


 私は思わず笑った。それを見た井口さんも微笑み、「でも、一つ言えるのは……」と続ける。


「言えるのは?」


「誰かを喜ばせたい、幸せになってほしい。そう考えながら生きるのは、けっこういい気分だぜ」


 私は頷いた。


 頭の中に、明るい永遠の笑顔が浮かんでいた。


(了)

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洗浄 @roukodama

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