現在(エピローグ)

 私の夫、葛城永遠が施設のバルコニーで暴れた二時間後、私は施設三階にある理事長室にいた。この障害者支援施設を運営する社会福祉法人の理事長で、かつ施設長も務めている井口さんの部屋だ。


 永遠はバルコニーでひとしきり暴れた後、軽めの鎮静剤を投与され、職員用の詰め所のベッドで眠らされた。幸い怪我人は出ず、職員たちにも特に動揺は見られない。


「別にこんなの、日常茶飯事だから」


 リストカット跡のある先輩職員は笑ったが、ああいう永遠を久々に目の当たりにした私はショックを受けていた。そんな私を井口さんが、ちょっと話でもしようやと誘ってくれたのだ。


 久しぶりに入った井口さんの部屋は、以前にも増して雑然としていた。広さは六畳ほどしかなく、男の子の秘密基地のように壁いっぱいに物が飾ってあるせいで、余計に狭く感じる。


「悪いね、俺、物が捨てられなくてさ」


 丸坊主にメガネ、足元は雪駄、という風貌に、人懐っこい笑顔。施設はこの人の方針で、障害を持った人や過去に罪を犯してしまった人の採用を積極的に行っているのだ。


 永遠の父親の紹介でここにやってきた私たちを、何も聞かずに受け入れてくれたのもこの人だった。


「永遠がやらかしたんだってなあ。小夜ちゃんも、びっくりしたろ」


 井口さんはそう言って笑い、食うかい? とせんべいを渡してくれる。その態度はあくまでフレンドリーで、屈託がない。


 だが私は緊張を隠せなかった。


 あの日、夜に紛れるようにして永遠の父親の家を出て、この土地勘のない山奥にやってきた。どう見ても訳ありの私たちに、井口さんは優しい言葉をかけてくれ、安く借りられるアパートを紹介してくれ、そして普通のコミュニケーションが困難な永遠を、職員として雇ってもくれた。


「まあ、あんな程度のことは毎日起こってるから、気にすることねえんだけどさ」


 先輩職員と同じことを言う。私をここに呼んだのも、別に私から何かを聞き出すのが目的ではないのだ。ただ、青い顔をした私を心配して、慰めるために声をかけてくれた。今日も井口さんは、何も聞かないつもりだ。


 それでいいのか?


 私はこれからもずっと、過去を隠して生きていくのか?


 私は自問した。永遠の錯乱を前に、静かな日常の中に埋もれつつあった罪悪感が、再び露わになっていた。井口さんに甘え、同僚の職員に甘え、そして永遠自身に甘え、私は私の罪をどこかで忘れ去ろうとしている。


「ヘリコプターが、飛んでたんです」


 独り言のように言葉が漏れた。


「ん? ヘリコプター?」


「何かの宣伝で。大きな音で、宣伝をしてました。何度も同じ言葉を繰り返して」

 意図が掴めないのだろう、井口さんは眉間にしわを寄せつつ、それでも「ふうん、そら、迷惑だなあ」と笑ってくれる。


 このままではいけない。


「井口さん」


 覚悟を決めて言った。もう、ごまかすわけにはいかない。


「私と永遠がここに来た経緯を、話します」


 封印しつつあった過去の記憶を、私は話し始めた。




 あの日──


 オウルの「墓」の壁を破壊した私と永遠は、山間部でぽつんと営業していた食堂に駆け込み、偶然居合わせたタクシー運転手に頼んで、一気に山を降りた。


 携帯も財布も手元になかったが、運転手に頼み込んで携帯電話を借り、永遠が暗記していた父親──葛城孝男の番号に連絡した。


 なぜかすぐに事情を察した様子の孝男の指示で、私たちはそのままタクシーで、以前小駒が父の送迎にも使ったバイパス途中にある休憩エリアに向かった。


 そこで私は初めて、永遠の父親に会った。


 永遠に似た長身、南国人を思わせる堀の深い顔。だが、永遠とは違い、どこか暗い雰囲気をまとった物静かな男だった。過去にいくつものスクープを上げた記者、という感じはしない。一言も話そうとしない永遠をチラリと見、私たちの代わりにタクシー料金を払うと、自分の車に乗るように言った。


 孝男の自宅か職場に向かうとばかり思っていたが、車はインターチェンジから東名高速に乗り、東京方面に向かっていった。私たちはそのまま、関東圏の山奥にある井口さんの施設まで送り届けられたのである。


 五時間近い移動の中で、私は孝男の質問に答え、そして孝男は私の質問に答えた。


 私は、タクシーの中でははっきり話せなかった様々なことを、隠し立てすることなく話した。


 自分が永遠を呼び出し、残酷な指導を受けさせたこと。私自身も度重なる指導を受けていたこと。職員の手によって殺されかけた所を、永遠によって助けられたこと。それに伴い、恐らく永遠が殺人を犯してしまったこと。


 どうしても自己弁護的になる話に、私は戒めも込めて、自分が小駒に耽溺し、身も心も捧げていたことも付け加えた。


 そして最後に、逃げ出す時に目の当たりにしたこと。


 あらためて思い出しても背筋が寒くなる。指導のルールだけなら、何とか受け入れることはできた。だが、殺人、遺体損壊となると話は別だ。本島の生首を前に平然としていられた職員や利用者、そして父や母とは、もはや取り返しのつかない断絶があった。


 息子の人生を滅茶苦茶にした女なのだ、相応の怒りをぶつけられると覚悟していたが、隆男は、私の話を黙って聞いていた。驚いた様子もない。


 聞けば、隆男はある程度この状況を知っていたのだという。質問を続ける中で、私がタクシーの中から隆男に電話した際、少ない説明で話が通じた理由がわかってくる。


 最初の兆候は、記事を頼んでいた永遠が行方不明になった頃、つまり私が永遠をオウルに呼び出した頃から始まった。


 孝男の周囲を怪しげな男たちがうろつくようになった。もともと敵が多い人間なのでそれほど気にしていなかったが、やがて出版社宛に、今進めている記事、つまり福祉業界の闇を暴くという特集の中止を求める書面、及びメールが届くようになった。


 それらは差出人のない、怪文書と呼ぶべき代物だったが、その中の一つに、洗浄を受けて以降オウルで勤務している永遠の写真が添付されていたのだという。


 孝男は、しばらく連絡の取れなかった息子がどこかの福祉施設におり、最近自分の周りをうろついている男たちがその関係者であり、出版社宛の手紙やメールが彼らの手によるものだと理解したのだ。


 そこで孝男がとった行動は、シンプルだった。


 相手の言うことを受け入れ、特集記事の取材及び記事執筆を完全にストップしたのだ。そして、それだけだった。今日永遠から連絡が入るまで、孝男はこの件に一切タッチせず、雑誌記者として別の記事の執筆に取り掛かっていたらしい。


「それが俺が永遠に対してできる、最善のサポートだと思ったんでね」


 そう無表情に語る孝男に、私は言いようのない違和感を覚えたが、一方で、これこそ、永遠がずっと抱えてきた苦しみだったのだと気付いた。幼い頃から家にいつかなかった父と、誰からも愛されるキャラクターの永遠とのギャップ。永遠が海外を放浪していたのも、そこで自分も父と同じ記者になるのだという答えを出したのも、結局はこの父との断絶にずっと苦しんできたことの証明ではないのか。


 私たちはどこに向かっているのか、そう聞く私に、孝男は「障害者施設だ」と答えた。曰く、特集記事の取材の中で知った施設で、訳ありの人間が多く集まっているらしい。


「オウル以上の山奥で街とは完全に隔離されているし、理事長もそういう人間に慣れてる。あそこならきっと、安全に過ごせるだろう」


 そして孝男は「ああ、そうだ」と助手席のカバンの中から一枚の通帳と印鑑を取り出した。


「別れた妻が永遠の為に作っていた通帳だ。数ヶ月暮らせる額があるから、その間に仕事でも見つければいい」


 私は、永遠の手を握る手に、力を込めた。


 これが、永遠の父親なのだ。いや、もしかしたら、父親の自覚すらないのかもしれない。だが、この孝男以上に永遠を傷つけた私に、何が言えるというのか。


 私は永遠の肩を抱き、その真っ青な顔を見つめながら、言った。


「私が、支えます。私が、一生、永遠を支えますから」


 ……

 ……


 井口さんは手の中にあったせんべいを、パキン、と折った。


「すみません、黙ってて」


 うつむいて言った。その視界の中に、半分になったせんべいが差し出される。顔を上げると、いつも通りの懐っこい笑顔を浮かべた井口さんがいた。


「別に、謝るようなことじゃねえよ」


「でも……」


 井口さんはせんべいを口に放り込むと、デスク脇に置かれた小型の冷蔵庫から、ラベルのない瓶を取り出して、透明の液体をグラスに注いだ。ぷんと、アルコールのにおいが鼻に届く。


「実はな、知ってたんだよ」


「え?」


 思わず聞き返す。


「知ってたって、何をですか」


「だから、いま小夜ちゃんがした話、全部」


「そんな……どうして」


 そう言って絶句すると、井口さんは苦笑いを浮かべる。


「不思議かい? 俺、こんな風貌だから、皆に誤解されるんだよなあ」


 意味が取れずに黙っていると、井口さんは肩をすくめて続けた。


「俺はね、小夜ちゃん。ここの長なんだぜ? 利用者や職員の人生を背負ってる立場なんだよ。どこの馬の骨とも知れない人間を、何も考えずに迎えてやると思うかい?」


「え……でも、ここは」


 そう、ここはそういった訳ありの人ばかりを受け入れている施設で有名なのだ。だからこそ孝男は私たちをここに連れてきた。そして実際、井口さんは私たちに何も聞かずに受け入れてくれた。


「はみ出しモンを受け入れるからには、むしろ厳しいチェックが必要なんだ。当たり前だろ? ただ、前科者は全員ダメ、みたいなアホな基準を持ってはいねえってだけさ。俺には俺なりの基準があるんだよ。説明しても理解はできねえだろうがね。とにかく、井口基準に照らしたとき、小夜ちゃんと永遠はまあ、入れてやってもいいだろうと判断した。そんだけの話だ」


「じゃあ……私たちのこと」


 私が言うと、井口さんは小さく頷いた。


「調べたよ、もちろん」


「……どうやって」


「こう見えて俺は、警察とか探偵とかには知り合いが多いんだ。 あと全国の社会福祉法人にも」


 そしてため息をつき、悲しげな表情になる。


「永遠の親父から連絡をもらった時、ああ、あそこの被害者かとピンと来た。前から気になってたんだ。施設名はオウルとかいったっけ。先代の理事長が引退してから、途端に評判が悪くなってたからな。この人権重視のご時世に、虐待だ監禁だなんて時代遅れな話がバンバン聞こえてきてた」


「そんな……そんな話どこからも」


「聞こえなかったかい? そりゃそうだ。健常者たちには障害者の声なんて聞こえねえんだから」


 井口さんが微かに語調を強めて言い、私は思わずうつむいた。


「とりあえずあんたらを受け入れた後、もちろん永遠の親父にも再度連絡を取った。だからいま小夜ちゃんが話してくれた内容も、全部知ってた」


 そう言われても、まだ信じられなかった。戸惑う私に、井口さんは突然言った。


「小夜ちゃん、あの後オウルがどうなったか、知ってるかい?」

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