五メートルほどの距離まで近づいた時、私の目は、ロウソクの光よりも、ロウソクの光が照らし出すものの方に集中していた。


 炎を反射する何か艶々したもの。


 それも、一つではない。小型の液晶のようにも見える四角い何かが複数、揺れる炎の中でチラチラと見えている。


 私は呆然としながら近づいた。扉に手をかけ、体が通るだけ開いて中に入り込む。


 そこに展開された恐ろしい風景に、私は絶句した。


 目の前に、膝くらいの高さの棚があり、数十本のロウソクが立っている。そのロウソクが照らし出しているのは、十数枚の写真立てだった。


 そして、中に入っているのは──様々な人の顔写真だ。


 言葉が紡げない。一体、何なのだ。私の目はその並んだ写真立ての上を、ゆっくりと移動していく。被写体は利用者なのだろうか、だがなぜ。


 そして私は、その中の一枚に目を留めた。


 知っている顔だった。


 先日見たあの具合の悪そうな彼女ではない。私がかつて嫉妬した、女優と言っても信じられるくらいに整った顔立ちをした女。


「瀬能……さん」


 間違いなかった。瀬能多恵だ。


 そして隣の一枚は瀬能多恵の母親、瀬能より子だ。


 並んだ母娘の写真の周囲をロウソクが囲んでいる。写真とロウソク。その組み合わせから連想するものは──


「これじゃ……これじゃまるで……」


 お墓じゃない、と言いかけた時、後ろで何かが聞こえた。叫び声?


 私は慌てて部屋を出た。無数のロウソクの灯った部屋にいたので、夜目が効かない。


「永遠? 永遠?」


 言いながら手を伸ばし、探った。やがて床に近い所に永遠の肩を見つけ、引き寄せる。


 永遠の体は強張り、震えていた。床に尻をついている。何かを見て驚いたという感じだ。瞬きを繰り返し、少しでも早く暗闇に慣れようとする。


 間もなく、永遠が見たものが、私の目にも入り込んだ。


 光だ。数十メートル向こうに浮かぶ、小さな光。ペンライトで照らしたような頼りない光。そしてその光の中に、恐ろしいものがあった。


「どうして──」


 それは本島だった。


 頬がぼこぼこに腫れて、青黒く変色した本島の顔が、ホタルのように浮かんでいた。


 それは不安定に上下しながらゆっくりとこちらに向かってくる。


 私も永遠も、恐怖で声が出ない。


 死んだのではなかったのか? 永遠に殴り殺されたはずだ。いや、あるいは生きていたのかもしれない。実際今こうして、動いているではないか。


 だが次の瞬間、その首が突然反転した。顎のほうが天井を向き、脳天が床を向いている。


「ひっ」


 思わず悲鳴を上げる。一体何が起こったのだ。まさか、幽霊?


 だが、その考えはすぐに否定された。その後頭部を掴む、誰かの両腕が見えた。


 本島が歩いているのではない。が近づいてきているのだ。


「……ひっ、ひっ」


 息が吸えない。何が起こっているのか。逆さになった本島の首を持った誰かは、ゆっくりとこちらに近づいてくる。


 やがてその首を持った人間の顔が、私の背後で燃えるあるロウソクの光で薄っすらと見えるようになった。


 小柄な、痩せた女。


 私はそれが誰かを知って失神しそうになる。


 母だった。


 母は本島の後頭部の毛を掴んで、その生首を持っていた。


 重いのだろう、頭を持った両手がブルブルと震え、やがてがくんと下がり、その拍子に本島の首が床に落ち、ゴロゴロと転がってきた。


「ひぃぃ」


 私も永遠同様に腰を抜かして後ずさった。私の数メートル向こうで停止した本島の首は、喉仏の下あたりですっぱりと切断されていた。


「そんな態度はないでしょう、戸田さん」


 ハッとして顔を上げると、母の後ろから、誰かが現れた。


 小駒だった。


 そのさらに向こうには、利用者と職員らしき影も見える。


「本島さんを殺したのはあなた方なんですよ」


「ど、どうして……首が……なんで」


「人間の体は重いんです。こんな所まで運んでくるには、解体をしないと。もっとも、お母様には頭だけでも充分重かったようですが」


「解体って……なんでそんなこと」


 私が言うと、小駒はいつもの首をかしげる素振りをし、「嫌だな」と言う。


「あなたは遺影を見たじゃないですか。ここはオウルのお墓なんですよ」


 私はゴクリとツバを飲み込み、肩越しに背後を振り返る。


 やはりそうだ。あれは墓だったのだ。


「もっとも、遺体は別の所に埋めますが」


「そんな……そんなこと、勝手にやっていいわけないでしょう」


 人を勝手に埋めたり、ましてや、解体したりなど、していいはずがない。そもそも施設で人が亡くなった場合、然るべき手続きが必要なはずだ。小駒はふんと鼻を鳴らし、前に出た。そして、転がった本島の生首を、大きなスイカでも持ち上げるように手に取った。


「綺麗事ばかり言ってはいけません。いいですか、オウルで暮らす人たちの多くが、家族から見捨てられた人たちだ。面会になど一度も来やしない。だから亡くなったことにも気付かないんです。それならばせめて、共に暮らした私たちの手で葬ってあげた方がいいじゃないですか」


 小駒は本島の顔をこちらに見せながら言った。


「じゃあ、やっぱり瀬能さんたちも──」


「ええ、お二人とも亡くなりました」


「そんな……どうして」


 言いながら、確かに私はあの指導の日以来、瀬能多恵も瀬能より子も見ていないことに気づく。


「洗浄はうまくいったんでしょ、それならなんで」


「ええ、うまくいきました。いや、うまくいき過ぎたというべきでしょうか。より子さんは自らの行動を反省する余り、指導が終わってすぐに自殺してしまいました。この森の中で首を吊ったのです」


「そんな……」


「そして、母の自殺を知った瀬能多恵もまた自分を責め、自らを指導申請するという行動に出ました。自分を罰したかったんでしょうね。皆の前での通常指導ではなく、特別指導室にこもり、電気棒によって自らを指導するという大変過酷な指導を受けられた。その中で瀬能さんは大変なダメージを受け、そのまま帰らぬ人となりました」


 もはやどう反応していいかわからない。それで小駒は、二人の遺体を施設内で処理したというのか。


「警察には……言わなかったんですか」


 無駄だと思いながら言った。小駒は首を傾げ、「なぜ言う必要があるんです」と言う。


「ここはオウルですよ。オウルで起きた問題は、オウルのルールで処理する。あなたもよくご存知のはずだ」


 私は小駒の言うことを信用できなかった。瀬能より子も瀬能多恵も、邪魔だと思ったから消したのではないのか。瀬能より子は金、瀬能多恵は体、いずれも目的を果たせば、あとは殺せばいいとでも思っているのか。


「狂ってる……あなた、狂ってるわ」


 私が言うと、小駒は微笑んで後を振り返り、利用者の一人──それは私の教室の生徒の吉田だった──に本島の首を渡し、代わりに何かを受け取った。


「さあ、本島さんも祀ってあげてください。写真も用意しましたから」


 小駒はそう言って私に小さな写真立てを手渡した。そこには本島の顔写真が入っている。私はその写真を見てまた悲鳴を上げた。それは明らかに死後撮られたものだった。ポラロイドカメラ独特の白い余白が不自然だ。


「うう……」


 私は呻き、湿った枯葉の上に額をこすりつけた。頭がどうにかなってしまう。そんな私の横に小駒がしゃがみこむ。


「オウルのルールは厳しいものです。その遵守の中で、どうしても犠牲者も出てしまう。でも、それほどのルールがあるからこそ、多くの利用者や職員の安心が成り立つのです。それに、施設の人数が減れば、それだけ新しい人材を受け入れることもできる。ほら、あなたのお母様がここに入れたのも、そのおかげだ」


「そんな……そんなことが許されるはずが」


「許されるはずがない? 違います。許すも許さないも、オウルが決めるんだ。そして私たちは、これまでとは全く違う、本当の社会参加を実現するのです!」


「そんな、そんな、そんな!」


 私は叫んだ。そうしなければ今にも気を失いそうだった。腰から電気棒を引き抜くと、小駒に向かって構える。


「私たちを、開放して。ここから、出して」


 すると小駒は笑った。


「だ、そうですが、皆さん」と後を振り返る。


 集団の中から誰かが叫んだ。


「指導! 指導!」


 猿のように飛び跳ねる影を見て、私は目を見張った。あの声は、砂山だ。


「先生、指導を受けなあい、受けなあい」


「おう、砂夫、その通り!」


 見れば隣に徳武の姿もあった。そしてさらに、奥からふらふらと男が歩み出てきた。


「小夜子! いいからきちんと指導を受けるんだ」


 父だった。本気でそう思っているのだろう、ロウソクの光に、涙を流しているのが見える。


「そうよ、小夜子、あなたはもう、オウルの人間なんだから」


 その隣には母がいる。その腕が父の腕にかかっている。私は絶望的な気分になった。父と母が腕を取り合う所など、これまで一度も見たことがなかった。


 力が抜けた。


 逃げられるはずがない。否。逃げる場所などないのだ。


 私の居場所は、ここにしかない。


 電気棒を持った手が震え始めた。もうそれを支える力もない。


 私は指導を受けるべきなのだ。その結果死んでしまうとしても、それがオウルのルールなのだから、仕方がない。


 納得しかけた時、私の腕を取るものがあった。


 永遠だ。


 永遠はぶるぶると震えていた。次の瞬間、私から電気棒を取り上げると、すぐそばにいた小駒の首元に接触させた。小駒の体が一瞬で硬直する。


「ぎいいいいいいい」


 小駒は床に転がって痙攣した。皆があっけに取られている中、永遠は電気棒を投げ捨て、私の腕を思い切り引っ張った。体が反転する。


 視界の先に、小駒が墓と呼んだ小部屋がある。永遠は猿のような奇声を上げながら、私もろとも小部屋に突っ込んだ。それまで気づかなかったが、写真とロウソクの並んだ奥の壁に、亀裂が入っていた。


 私たちは壁に向かって飛んだ。足元を蝋燭の火が焼く。永遠と共に壁に体当りすると、腐った壁は割れ、閃光弾が打たれたように一気に周囲が明るくなった。


 壁の向こうは、私が当初想定したとおりの下り坂だった。木はあるがまばらで、私と永遠は雪のないスキー場のようなその坂を転げ落ちていった。

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