駅舎
日はまだ高い位置にあるのに、森の中は思った以上に暗い。
そして、山なのだから当然だが、行く道は平坦ではなく斜面なのだ。暗い上に木々が密集して生えているので、簡単には進めない。だが、そんなことを気にしている暇はない。
木と木の間に無理やり体を押し込むように進んでいく。股を開閉するたびに鋭い痛みが走る。気が遠くなる痛みだ。自分の性器がどんな状態なのか、想像するだけで叫び出しそうになる。
オウルは山の中腹に作られているので、頂上はまだずっと先だ。斜面は当然上り坂で、すぐに体力がなくなっていく。だが、進みづらいのは私たちだけではない。後ろを振り返ると、数十メートル下、重なった木々の向こうに、利用者や職員の姿がちらついた。追うスピードは決して早くない。むしろその距離は徐々に広まっているようにも思う。逃げ切れるかもしれない、という希望が沸いてくる。
永遠は私のあとを黙ってついてきていた。その顔は真っ青で、焦点も合っていない。「永遠」と声をかけると「ああ」と反応はするが、本島のことを考えているのだろうか、思い詰めた表情を崩さない。
本島は死んだだろう。きっと死んだはずだ。
そして本島は、オウルのルールにおける管理者だった。
つまり永遠は、いや、私たちは、オウルのルールに敵対したのだ。追っ手がそのことを知っているのかはわからない。だが、遅かれ早かれそれは明らかになる。
枝をくぐりながら、もし捕まったらどうなってしまうだろう、と想像する。
警察に突き出されることはない、という確信があった。オウルのルールは、そういった社会的常識の枠外に位置している。オウルで起きたことは全て、オウルのルールで処理されるのだ。
きっと、警察に捕まることが天国に思えるような、悲惨で恐ろしい目にあうに違いない。実際私は、本島に殺されかけたのだ。
尖った枝や葉がむき出しの手足を切り裂く、血が出る。それに、暑い。
頭上を覆う葉のせいで暗いのは確かだが、気温がそこまで下がるわけでもない。既に全身が汗塗れで、それが股間の傷に染みて辛い。
「永遠、頑張って」
私は自分の痛みを振り払うように声をかける。「ああ」と力ない返事が帰ってくる。
私は肩越しに振り返り、青い顔をした、丸坊主の永遠を見る。
私が永遠を壊してしまった。小駒の言うとおりだと思った。私は小駒に矯正されたわけではない。自分の意志で、自分の為に、永遠の人生を破壊したのだ。
そのまま私たちは森の中を進み続けた。
徐々にコツが分かってきたのか、最初よりも随分早く進めるようになった。
いや、そうではない。よく見れば登り斜面だった地面が平坦になりつつある。それに、明らかに木々の密度も低くなっている。
私は周囲を見回した。いつの間にか私たちは、なんとなく人工的な雰囲気の平地にいた。その証拠に、木々の隙間から遠方を伺えば、そこには明らかな段差があった。これは人間の手によって整地された土地だ。
恐らくここがケーブルカー建設のために工事された場所なのだ。ここからなら山の麓へ降りていけるかもしれない。
私は永遠の手を取り、駆けた。もう体力は限界だったが、ここで止まるわけにはいかない。
やがて進行方向に、木々に飲み込まれるように立つ建物の輪郭が見えた。小駒のロッジより二回りは大きい。
「永遠、あそこよ」
私は言って、その影に向かってスピードを上げた。
近くで見ると、それは普通の住宅とは明らかに違う設計で、駅舎と言われればそう見えなくもない。
広い間口にウッドデッキのような拾い空間。容れ物だけを作った状態で放置されたらしく、中を覗くと、建物の中には何もなく、かろうじて部屋を区切る壁が立っているだけだ。
ガラスの入っていない窓枠から、無数のつる草が屋内に侵入している。室内の床は赤茶けた枯れ葉が積もっていて、土と腐臭が混じったようなにおいがしている。
案内図で言えば、この建物を抜けた先に発着所があり、その先はレール用に切り開かれた斜面になっているはずだ。
「この奥から山の下に抜けれるはずよ」
床が腐っていたり穴が空いていたりする可能性を考え、互いに腕を固く絡ませながら中を進んでいく。
視界はさらに暗くなった。まだ日没までは時間があるはずだが、照明のない建物の中は思った以上に暗い。一歩踏み出す度に暗さが深くなる。
不安からか、痛みからか、徐々に息が荒くなる。腐葉土のような生々しいにおいに足を止めかけるが、進行方向に小さな光の点を見つけ、もうすぐだと言い聞かせる。
行き先に見える微かな光と、握った永遠の手の体温だけが私を支えていた。
床に積もった枯れ葉を踏みしめると、その下に硬い床を感じる。一歩一歩ゆっくりと、外への出口である光に向かって進んでいく。あそこまで行けば、外に出られる。施設を逃げ出せる。
もう少しだ。私たちはそのまま光に向かって歩いていく。
突然、永遠が小さな声をあげ、足を止めた。
「どうしたの、止まっちゃダメ」
暗闇の中、永遠の影が、私たちの目指す光の方を向いている。永遠はさらに呻き声を上げた。一体どうしたのか。私もあらためてその光を見つめ、そして、違和感に気づいた。
揺れていた。
光が、揺れているのだ。
日光はあんな風に揺れるだろうか。そもそもよく見れば、日光にしては妙に色が濃い。白や黄色ではなく、オレンジ色の光なのだ。
とにかく進むしかなかった。私は嫌がる永遠の手を無理やり引いて、光に近づいていった。光の揺れはより明らかになっていく。いや、それだけではない。
光が分裂を始めていた。一つだった光はいくつもの小さな光にわかれ、怪しく揺れている。
十メートルほどの位置まで近づいた時、私はその光がロウソクのものであることを認めた。
不安が物質となったように喉をせり上がってくる。そこには発着所への出口があるはずだった。そこから、例えばソリに乗って滑り降りるように、楽々と山を降りるはずだった。いや、それは無理でも、今までかき分けながら進んできた山の中よりは多少なりとも楽な道を、永遠と二人で、降りていくはずだった。
それなのに、そこは行き止まりだった。
突き当りに部屋らしきものがあり、扉が半開きになっている。その奥でロウソクらしき光が無数に揺れているのだ。私はその場で腰が砕けたようにしゃがみこんだ。
「小夜子」
永遠が私の名を呼ぶ。そして、恐ろしいことを言った。
「あのロウソク、誰がつけたんだ?」
その言葉に鳥肌が立った。
確かにそうだ。誰が、いつあれをつけたのか。ここは放置された廃墟なのに。施設の人間もここには近づかないと小駒は言っていた。ロウソクがどれだけ保つのか知らないが、あれほどたくさんの炎が、何日も燃え続けるとは思えない。
あるいは、誰かがここに住み着いているのだろうか。ホームレスのように、廃墟に勝手に入り込んで暮らしている山人のような人が? それならば、事情を説明して山を降りる道を聞くこともできるかもしれない。
「行ってみよう、永遠」
「え?」
「引き返してたら、追いつかれちゃう」
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