逃亡

 ……


 ……


 気がついた時、私はまだベッドの上にいた。


 全身が溶けたようなおかしな感覚。だが、意識すると指先が、そして腕が動かせた。


 ゴッ、という音が聞こえて暗がりに目をやると、何かが動いていた。


 人間だ。一体何をしているのか。


 永遠? そこにいるのは永遠なのだろうか。


 嫌だ。考えたくない。私は目を閉じた。その間も、どこか液体的なゴッ、ゴッという音は聞こえ続けていた。



 どれくらいの時間、そうしていたのだろう。気がつくと音は止んでいた。


 目を開けると、すぐそばに誰かが立っていた。


「──小夜子」


 永遠の声だった。丸坊主になった永遠が、わたしを見下ろしていた。その痩せた体の向こう、部屋の奥の壁に何かの影が見える。


「永遠……どうしたの」


 私は言った。なぜかその影から目が離せない。


 永遠も私の視線を追うように振り返ったのがわかる。そして言った。


「あいつが、お前を」


 思わず目を強く閉じる。薬の効果が切れてきたのだろうか。頭が回転を始める。


 あいつが、お前を。永遠の言葉が、先ほどまでずっと聞こえていた、ゴッ、ゴッという音と結びつく。


 私は目を開けると、覚悟を決めて、ベッドから体を起こそうとした。


 股間に刺すような痛みがあり、呻く。


 恐る恐る性器に指をやった。外皮に触れただけで、叫び出しそうな痛みが走った。


 だが、動けなくはない。ベッドの上での向きを変え、床に足を下ろす。


 すると、永遠の向こう、壁にもたれるようにして動かなくなっている本島が見えた。


「死んだの?」


 永遠は黙っていた。私は手を伸ばしその腕に触れた。ビクリと震え、こちらを見る。


「小夜子、俺──」


「逃げよう、永遠」


 永遠の腕には、本島を殴ったときの血がべっとりとついていた。私は立ち上がった。痛みはあったが、気にしている場合ではない。


 部屋の隅のキャビネットに丸めて置いてあった服を着た。備え付けの手洗いで永遠の血を流し、それから、動かない本島の体を、ベッドの下に押し込んだ。


 永遠はしゃがみ込んで頭を抱え、低く呻いていた。


「永遠。私と逃げよう。私と一緒に、ここを出よう」


 私は床に転がっていた電気棒を手に取り、言った。





 永遠と一緒に保護室を出ると、短い廊下の先に、見張りの職員がいた。職員は椅子に座ってうつらうつらしており、私は静かにその背後に周り、電力を最大にした電気棒を首元に押し付けた。


 職員は短い悲鳴を上げ、一瞬で失神してその場に転がった。


 ほっとして顔をあげると、保護室エリアの出入り口、もう一つの鉄格子の向こうで、無表情の職員がこちらを見ていた。


 私たちが今やったことは間違いなく見られてしまった。


 彼が鍵を開けてくれなければ、私たちは外に出られない。


 もうだめか、と思いかけた時、意外にもその職員は鍵を開けて、鉄格子の扉を開けた。なぜなのかわからないまま扉を抜けると、その職員は顔に妙な笑顔を浮かべ、「葛城くん、葛城くん」と、永遠の手を握るのだった。恐らく仲の良かった同僚なのだろう。


 私たちは誰もいない長い廊下を進んだ。この先は住居棟の職員フロアと繋がっている。


 だが皆作業に出ているのだろう、扉を出た先の廊下には誰もいなかった。洗浄が終わったことにして一旦自分の部屋に戻ろうかとも思ったが、本島が発見されてしまった時点で施設を出ることは難しくなるだろう。やはりこのまま逃げるしかない。


 しかし、どうやって?


 頭の中に、見学の時以来ほとんど見ていないオウルの案内図を再現する。


 正面突破でクラブハウスを抜けたとしても、職員にすぐに気づかれ囚われてしまうだろう。すぐに周囲の森に逃げ込んだら? 


 いやだめだ。あの辺りには動物避けのために設置された鉄条網が張られている。小駒は古いものだと言っていたが、乗り越えられるかはわからない。


 じゃあ、どうする? 必死に記憶を探る。そして私はあることを思い出した。


 案内図の最も上の方。そうだ。ケーブルカー。施設開設と時を同じくして、ケーブルカーを建設する計画が持ち上がった。だが、駅舎が作られ、レール建設のために山が切り開かれたところで計画は頓挫し、そのまま放置されているという話だった。


 駅舎やレールの敷地はまだ残ってると思いますよ。あの時の小駒の話が思い出される。


 三十年も経った今、どうなっているかはわからない。だが、他に道はない。


 私たちは職員フロアを通過し、運良く誰にも会わずに住居棟入口まで来くることができた。ここを抜けてすぐにUターンすれば、オウルの背面側の森に紛れることができる。


 柱の影からガラス扉の方を伺うと、二名の職員がこちらに背を向けて立っているのが見えた。幸いなことにそれほど強そうな二人ではない。


「よし、行こう」


 永遠の腕を引き踏み出した。扉まで十メートルほど。その時、下駄箱の影からゆらりと誰かが現れ、私たちを遮った。腕まくりした白シャツに、くたびれたスラックス。


「小駒……さん……」


 小駒は首を傾げ、目を細めて、私と永遠を見比べた。動悸が激しくなる。


「おや、どうされたんです。二人揃って」


 どう答えればいいのか。私が迷っていると、永遠が答えた。


「洗浄が……終わったので、作業に復帰させようと」


「作業? 洗浄の後で作業なんてできるはずがない。葛城君、君もそうだったでしょう?」


 そして小駒はわざとらしく、「本島さんは、どうしたんです」と聞いた。


「保護室の清掃を──」


 永遠が言ったが、苦しかった。恐らく小駒はもう全てを知っている。


「小駒さん」


 私は言った。息が苦しい。だが、何とかごまかすしかない。


「先ほどの件、すみませんでした。あの方は──」


「ええ、まあ何とか、落ち着かれました。ああ見えて芯の強い方でしてね。障害を持つって大変なことなんですねと仰ってました」


 一瞬、意味がわからず黙った。「障害って……」と呟く。


 小駒は微笑みを深くした。


「ええ。突然あんな風に感情的になり、暴力をふるおうとした。大勢いるオウルの利用者の中でも、あれほどの反応を示す人はそうはいません。あなたは立派な障害者ですよ。恐らく何らかの精神障害を患っている」


「そんな……」


 怒りと後悔とで体が震え始める。それほど私を悩ませ、追い詰めたのは誰だと思っているのか。


「あなたの……あなたのせいじゃないですか」


 絞り出すように言うと、小駒は首を振り、「それは誤解です」と答える。


「人間は、常に自分で自分を選び取る。全て自分の選択なんだ。私はあなたに何も強制してはいない。そうでしょう?」


「それは……」


「指導についても同じだ。電気棒を使った指導は、ここの利用者が自ら取り入れ、自ら運営しているものです。私は何ら、命令していない。洗浄指導についても、私が持っていたアイデアを、本島さんが取り入れたに過ぎない」


 詭弁だ。そんなものは詭弁だ。この施設で最も権力を持っているのは小駒だ。誰もが小駒の顔色を伺い、小駒の考えに従って動いている。


「ここは……オウルでは、皆があなたの顔色を伺って過ごしてる。それは、命令してるも同然だわ」


 私は言った。だが小駒はそれを鼻で笑った。


「わからない人ですね。だから、私の顔色を伺うという判断は、私が強制したことじゃないんです。各自が自分で、そうしようと思ったに過ぎない。各人が自分の意志でそうしているのだから、私には何の責任もないでしょう?」


「違う──」


 反論しようとした私に、「小夜子」と永遠が小さく声をかける。


 見れば、小駒の背後、住居棟の出入り口を預かる二人の職員がこちらを見ていた。


 そうだ。こんなところで時間を浪費している場合ではない。本島が発見されれば、私も永遠も再度拘束され、今度は本当に殺されてしまうだろう。


 私にしろ永遠にしろ、行方不明になってもすぐには誰にも気付かれない。完全に外界と隔絶されたこの施設で過ごしていたのだ。少なくとも短期的には、誰がいなくなっても外部にはわからない。その間に小駒はきっと、何らかの言い訳を考えてしまうだろう。


「通して下さい」


 なるべく感情が入らないように言った。


 予想に反して、小駒は肩をすくめ「ええ、もちろん」と脇にどいた。


 小駒は振り返り、二人の職員に頷いて見せた。職員は顔を見合わせて、だが黙って解錠し、扉を開けた。


「さあ、どうぞ」


 私は頷いて、ゆっくりと歩き出した。小駒は本当に何も言わなかった。微笑んだまま、私たちを見送る。背中に視線を感じ、息が荒くなる。全身が逆立つような不快感。足元がリノリウムから土へと変化する。


 私は振り返った。入口の職員がトランシーバーを耳に当て何かを話している。まずいと思う。


「永遠、走ろう」


 私たちが右転して森に向かって走り始めてすぐ、サイレンの音が鳴り響いた。初めて聞く音。思わず立ち止まって周囲を見回す。あっという間に、点在した作業所から職員と利用者がぞろぞろと溢れ出てきた。


「永遠っ」


 私は永遠の腕を掴んで森へと走った。股間の痛みが激しい。ただれた肉が下着に擦れ、体液が滲み出て湿っている。


 だが、止まるわけにはいかなかった。このサイレンの音自体が、小駒の意思なのだ。いや、小駒の意図を汲んだ、施設の意志だ。


 森が近づいてくる。顔を回して見ると、二十人から三十人程度の人間が広場に集まり始めていた。


「ぐっ」


 すぐ傍で呻き声が聞こえた。見れば、どこからか現れたのか、勇太が永遠に追いつき、背中にのしかかっていた。筋肉で武装した勇太を押し戻す力は永遠にはない。


「永遠っ」


 私は腰から電気棒を引き抜くとスイッチを押しながら勇太に押し付けた。勇太が悲鳴を上げて転がった。土の上でガクガクと痙攣している。やはり最大電流、効果が違う。


「行こうっ」


 私は呻いている永遠の手を掴み、密度高く木々の生えた森の中へと勢いよく没入した。

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