第5話

 曙が見える時刻になれば、徐々に木々は姿を消し、地平線に建物の影が揺れる。あれがロイナード邸であると気づくのに時間は要さなかった。

 もし、再びあの屋敷を見れば何か感じるものがあるかと思っていたが、想像以上に何も感じなかった。ただ、湧き上がったのはへの─。


「ッ!?」


 かつてないほどの違和感。後悔、未練、羨望などではなく、真っ先に浮かぶのがだと? この感覚、まさか? いや、ありえない。

 私の額から嫌な汗が出ていると気づいたのは屋敷の門が視界に入ってからであった。なぜだ? 私は最大限の迂回をするつもりだった。私が此処に近づいて良い事など一つもないのだから。それなのに何故、私は今、此処に


「くふふ、あらぁ、もう帰ってきたの?お兄さま」


 冷や汗が全身から滲み出る。おおよそ十歳とは思えぬ妖艶な笑み。私を見つめるソレはドロリと粘着質な弧を描き、その口は私の全てを貶めるために開かれる。


「サターリア、お前は何なのだ!?」


 幼き少女がこんな時間に外に出るものか。まして、かのように門の上に座っていることなどありえない!


「お声が大きくってよ、お兄さま。それでは叔父さまたちが起きてしまうわ。そしたらお兄さま、本当に殺されてしまうでしょうね、くふふ」


「そんなことはどうでもよい!! お前の正体を明かせ!!! お前、いや貴様もあの邪神と同じ仲間なのだろう!? 貴様から感じる嫌悪、怒り、憎しみ。!」


 今までニヤニヤとしていた彼女の表情がスっと無へと変わり、途端に鬼のような形相へと変化した。そして、長い髪の毛を掻き乱しながら、狂ったように何かを呟き始めた。それが何かを聞き取れずにいたが、時折聞き漏れる言葉から、恨み言のようであることはわかった。


「わたしだけの、お兄さまなのに」


 最後に呟いたソレだけははっきりと聞き取れた。


「やはり、貴様は」


 不思議と恐怖は感じなかった。絶望や驚愕もない。ただ、言いようもない納得感だけが私の身を包んだ。昔から抱いていた妹への疑心感がベルモンとの出会いで点と線が繋がったような気がした。


「お兄さま、実はもう一つだけ貴方に隠していたことがありますの」


「私は貴様の兄ではない。とっとと姿を現せばどうだ? いつ、私の妹の身体を乗っ取った?それとも、最初から妹に扮して私に付きまとっていたのか?」


「エルデンドお兄さま、わたし、お父さまも殺したの。毒を盛って、徐々に、苦しめてから、ね。馬鹿な医療士は病気だなんて言っていたけど、あれはわたしが遅行毒を少しずつ時間をかけて致死量まで与えていたからなのよ。お父さまはわたしを愛していたようだけど、わたしはなーんにも感じなかったわぁ」


 にちゃあと唇の間から糸を引かせて口角を上げるソレは何よりも醜悪で、陰険で、度し難い表情をしていた。


「そう言えば私が怒るとでも思ったか?」


「お母さまの腹を割いたのも事実。あの時は冗談交じりで話したのだけれど、助産婦に聞けば分かるわ。それとも、今聞いてきてあげようかしら?」


「もういい。口を閉じろ」


「つまり、両親を殺したのはわたし。愛されたかったお兄さまから愛を奪ったのはわたしなの。お母さまは靡きそうにないから、すぐに始末した。でも、お父さまはものの見事にわたしの虜。お兄さまから受ける羨望の眼差し、思い出すだけで涎が出るわぁ。まあ、飽きちゃったから殺したのだけれど」


「わかった。今すぐ貴様も殺してやる」


 生かしてはいけない。此奴はもはや生物として存在してはいけないものだ。道徳、倫理、秩序など皆無。その歪な感情は周囲を不幸にする事に留まらずその破壊まで行う。私はここで刺し違えてでもこの邪悪なる存在を消し去らなければならない。


「あぁ、お兄さま。その視線、言葉、感情。全部わたしに向けられたもの。今、お兄さまはわたし事だけを考えてる。もっと、もっとちょうだい。お兄さまの魂が灼けて潤けて落ちるくらい、もっと激しく憤怒に焦がれて、嫉妬に溺れて、ワタシノモトヘオチテキテ」


「奴の言葉に耳を貸すな!!エルデンド!!!」


 聞き覚えのあるどこか間抜けな声と共に私の脇腹に大きな衝撃が走る。揺れた視界が定まったときには既に


「何が?」


「危なかったな、エルデンド。あと少しで奴の手中に落ちるところじゃった」


 どうやら私は飛んでなどいなかったようだ。小麦色の少女の腕の中で深いため息を吐いた。


「どうしてここに居ると分かった?」


「ふっ、お主がに決まっておろう。我は最強だからな。その程度の事などお見通しじゃ」


 自信満々に鼻息を漏らす彼女の姿を見ると、昂っていた気持ちが一気に冷めていく。


「確かに。貴様は運だけはいいのかもしれんな」


「とりあえず、ここから大きく離れるぞ。彼奴がどこまで追ってくるか見当がつかぬ。それにお主の侵食も酷い。場合によっては大陸を跨ぐことも考えねばならぬな」


「貴様は奴の正体を知っているのか?」


「ああ。奴は───」


 しかし、次の言葉を紡ぐ前に彼女は急激に下降し始めた。


「おい!どうした!?」


「ま、魔力切れじゃあ......。まさか、こんなにも衰えておるとは思わなんだぁ......」


 ぐわぁんぐわぁん、と揺れ始め、私の身体が宙に放り出されそうになる。彼女の顔色も最悪だ。このままでは非常にまずい。


「どこでもいい!一旦降りて休憩しろ!!そこの木にでも止まれ!!」


「わかっておる......。しかし、もう視界が─」


 やがて彼女は項垂れて、二人まとめて垂直に落下していく。


「うおおおお!!」


 私は身を翻し、倒れた彼女の身体を抱き抱え、目の前の木に向かって、背中を向ける。

 接触した木の枝はバキバキと音を立てて折れていき、私の身体に牙を向ける。


「ぐっ!!」


 気がつけば土に背をつけていた。なんとか生きているらしい。その事実に安息が漏れた。腕に眠る彼女も静かに寝息を立てている。なんとも暢気なものだと笑えてくる。


「しかし、彼女に助けられたのか?」


 何であれ、私をあそこから離してくれたのは彼女なのだ。あのときの私は息も忘れるほどに苦しかった。心の臓から送られてくる血は熱を帯び、また脳は薪を焚べて全身を燃やそうとしていた。あのまま妹の所に居たならば、私は灰燼と化していたかもしれない。


「この阿呆に助けられたというのはなんとも複雑な気分だ」


 それでもやはりこのように思わざるを得ない。


「感謝する。ベルモン」


 気持ちよさそうに眠る彼女を背負って、南へと下る。身体を休める宿くらいならどこかにあるだろう。



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