第11話 “リゼル、ずっと側にいて”

 終わりは、それでも少しずつ近づいてくる。ひたひたと、確実に。


「陛下!」


 突然執務室の戸が開く。リゼルはペンをインク壺に差して顔を上げた。顔中に汗をにじませて、ハスラ・グスタフ卿は書類をくしゃくしゃになるほど握りしめてリゼルの前にやって来る。


「陛下! 我が領地が蝕崖に半ばまで吞まれました! 私の屋敷の敷地も黒い壁の中に取り込まれ、民は怯えております! どうか、どうか、陛下のお力で何とかしていただけませんか!」


 自分の屋敷の敷地が蝕崖に呑まれたから泣きついてきたのだと傍目に丸わかりの発言だったが、リゼルは顔色ひとつ変えなかった。真っ青な顔でぶるぶる震えながら、ハスラは領地の詳しい内情を書き連ねた書類を提示する。フリーデル地方の豊かな自然は国内に果実と野菜を供給する源だ。人口も多く、蝕崖から多くの民が中央側に逃れているとすれば、半分の領地面積ではとても足りないであろうことは明白だった。


「分かった。手を打とう」


 ありがとうございますっ!、と叫んだ痩せぎすの男が慌ただしく去っていった後、リゼルは自室の奥の扉を開いた。かつて、地下書庫アルケミラの奥にあったリゼルの研究室を城を出ずとも使えるようにと移動させたのだ。本当の意味でリゼルは、あの夜から城を離れたことがない。自分の手で自分自身を城に閉じ込めたともいえるだろう。しかし、それはクライノートもまた同じ。


 リゼルは闇に沈んだ階段を燭台の光で照らして降りていく。研究室には窓がないので、こうして灯火を持ち込まなければいけないのだ。後を追ってきたクライノートが転ばないよう、リゼルは彼女に手を差し出す。クライノートははにかんでその手を大事に取った。まだ、クライノートの背丈の方が高い。ぼくだってそのうち伸びるんだから、と少し悔しく思っているのは秘密だ。そのうち、背丈にょきにょっ期が来るはず。


黄昏の獣デルニエさえなんとかできれば大丈夫だと思ってた」


 周りの燭台に火を入れながら独語する。広がる光は乱雑に放られた紙の束や、内部で鉱石の結晶が生まれたフラスコ、半ばから青い鉱石に変じてしまったビーカーなんかを照らしていく。錬成陣の中心に置かれたままの黄金の塊は鈍く光り、その反射光がクライノートの翼を金色こんじきに染めている。黄昏の獣デルニエは確かに蝕崖の進行を早める原因だった。けれど、どうやら世界はもう待ってはくれないようだ。きっと、人間という種はもうとっくの昔に神さまにそっぽを向かれているのだろう。それでも。それでも、リゼルは誓ったから。すべての民を守り抜くというただしさを掲げたから。


「まだ、ぼくは、諦めない」


 黄金燈の錬成と同時並行で探していたものがある。


 ──蝕崖の排除方法。


 虚無へ失われたものは取り戻せないが、蝕崖の進行を止めるだけでなく人が生きられる場所を取り戻す。その方法をリゼルは睡眠を削りながら、ずっと探していた。けれど、後一手がどうしても足りない。とはいえ、蝕崖を無視できなくなった今、足りない一手をここで埋めなければ。リゼルは眉間にシワを寄せつつ、机に向かって中途半端になっている研究に着手した。壊すのは世界の法則そのもので、人間がそれを破るなどできないはずだ。だが、それでも。


 持ってきた最初の燭台の火がふつりと消えた。リゼルの手から羽ペンがからんと落ちる。


「クライ、どうしよう」


 リゼルは顔を両手で覆い、レンガがむき出しの天井を仰いだ。


「ぼくには、できないよ……。何とかするって言ったのに、守らないといけないのに」


 リゼルの向かい側で本を読んでいたクライノートが立ち上がって、リゼルの両手に手をそえた。ふたりとも手が冷えてしまっていたから、あまり感覚がなかったけれど。クライノートの手に両手は顔からはがされた。目を開けると、初めて出会った二年前のあの日と何ひとつ変わっていない白い少女がそこにいて。


“大丈夫。リゼルなら大丈夫。できるよ。だって、リゼルは特別だもん”


 クライノートは文字の書かれた紙片をリゼルの前に持ってくる。いつからか、クライノートの字は拙くなくなっていた。当たり前だ。毎日、雨の日も晴れの日も風の強い日も、死んでしまいたくなるほど憂鬱な日も、身体が砕けてしまいそうなくらいに寒い日も、リゼルに言葉を贈っていたのだから。


 ありがとう、とリゼルが言うとクライノートは心底嬉しそうに笑う。その屈託のない笑顔にいつだってリゼルは救われていた。


「もう遅いから寝ようか」


『うん』


 クライノートが眠ったことを確認し、リゼルはもう一度今度はひとりで研究室へと向かった。再度、紙の山を掻き分け、前に地下書庫アルケミラから持ち込んだ書物に顔をうずめる。そうして、再び何も進まないまま長い時間が経った。無理かもしれない、そう思って手が止まったその時──


“大丈夫。リゼルなら大丈夫。できるよ。だって、リゼルは特別だもん”


 クライノートが書いた文字が目に入って、閃いた考えにリゼルは思わず立ち上がった。


「そっか……、すごく簡単なことじゃないか」




 翌日、城にある知らせが届いた。リゼルは眉ひとつ動かさずに興奮した面持ちの使者の言葉を聞く。


 フリーデルの蝕崖が消えた、と。


 そうか、とだけリゼルは頷いて使者を帰した。今はとにかく疲れていた。眠ってさえしまいたかったが、入れ替わりに昨日泣きついてきたグスタフ卿がドタバタと駆け込んでくる。


「陛下っ! 陛下っ!誠にありがとうございます! この恩義、どうすればお返しできるでしょう?」


 青白い顔でリゼルは両手を擦り合わせている男を見る。


「礼など、いらない。民を守るのが余の役目だ。余は当然の義務を果たしただけにすぎない」


 気づけば、王が蝕崖を払ったという話は美談として国中に流布していた。黄金燈を用いて黄昏の獣デルニエを追い払い、蝕崖を押し戻す。まさに奇跡だ。希望だ。何もしない天のみ使いよりも信ずるべきは錬金の王。教会でさえ、天のみ使いばかりを崇めてよいものかと意見のぶつかり合いが勃発しているらしい。クライノートはそんなことはまるで気にしていなかったが。


「我が領地が!」

「私の村が!」

「陛下!」

「お救いください!」

「取り戻してほしいのです!」


 多くの願いが寄せられる。リゼルは顔色ひとつ変えずにすべて叶えてみせた。蝕崖の侵食速度は上がる一方で、何度消してもすぐに地は呑まれる。不毛なイタチごっこであることはとうに分かっていた。それでも。


“リゼル、どうやってるの?”


 幾度となくクライノートに問われたが、リゼルはその度に秘密だよと言って頑なに口を割らなかった。




 こん、と咳がこぼれる。少し、根を詰めすぎただろうか。重く軋んでいる身体を引きずって、リゼルは外に出る。中庭では青紫のシラーの花が咲いていた。ちいさなベルのような形の花はゆらゆらと心地よい風に揺られ、それと同じ風がリゼルの髪もさらっていった。久しぶりの太陽の光はリゼルには少し眩しすぎる。目を閉じ、瞼の上に温かな光を感じてぼうっとしてみる。強張っていた気持ちが解けていくようだった。


「陛下」


 後ろから躊躇うように声がかけられる。振り返ると、ベルデモントが立っていた。


「陛下、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか?」


「なんだ?」


「陛下はどのようにして蝕崖を払っておいでですか?」


 リゼルは無表情のまま首を振る。


「答える必要はない。大事なのは民を救うという結果だけだ」


「……では、質問を変えます。陛下、お身体は大丈夫なのですか?」


 無表情でいるリゼルの眉がぴくりと動いた。


「お身体を病まれているのではありませんか?」


「いいや。大丈夫だ」


 平坦な声で否定したが、ベルデモントの顔に刻まれた憂いの色は深まるばかりだ。さく、と芝生を踏んでベルデモントが歩み寄るごとにリゼルは一歩ずつ後ろに下がる。


「それならばなぜ、そのような顔をなさっているのですか! こんなにも青白い顔をなさっているのに! 今にも倒れてしまいそうなほど痛むのでしょう?」


 だめだ。これ以上近づかれたら、分かってしまう。


「ちがう、ぼくは!」


 伸ばされた手をリゼルは感情に任せて振り払う。気付かれてはいけない。悟られてはいけない。忠誠をくれたこの人には特に。王はつよくあらねばならぬのだから。


「へい……か……」


 ぱきん、と何かが砕ける音がした。リゼルの前で、リゼルがわずかに触れたその手から、ベルデモントの身体が黒水晶になって壊れていく。


「ぁ……」


 リゼルは夢中で手を伸ばした。まだだ。まだ、彼のくれた想いに応えられていない。もう、何も失くしたくない。いなくならないで。けれど、リゼルが触れたそばから、老騎士が崩れていく。ぱきん、ぽきん、と音を立てて。


「いやだ、いや……。ぼくは、あなたを失いたくない」


 ぼろぼろと大粒の涙をこぼす王に差し出す手がなくなってしまったことが、ベルデモントには悔やまれた。この王は、ベルデモントという存在が消えてしまうことに泣いてくれるのだ。


「へい、か。なか、ないで……ください。あなたはとても、やさしい。……やさし、すぎるのです。ですから、……どうか」


 頭だけしか、もうリゼルの手になかった。そして、そのわずかも黒水晶に変わっていく。温もりはとうに消え果て、石の崩れていく冷たい感触だけがする。


 どうか、ごじぶんをたいせつになさってください。


 それから、わたしは、あなたのきしになれてしあわせでした。


 しわの多い顔をもっとしわだらけにして、ベルデモントは微笑む。泣きじゃくる王の心を救ってあげたかった。けれど、もうこの手は二度と届かない。もう、守ってあげられない。


 ──この王はその身体さえもすべて民に差し出してしまったのに。


 強い風が吹いた。どこからか紅い花びらが飛んでくる。ベルデモントだった欠片は砂の粒くらいの大きさにまでなってしまって、不思議なほどに軽かったから、風にさらわれてしまう。必死に守ろうとした最後の欠片も指の隙間からこぼれ落ち、風が止んだ後に両の手を開いても何も残っていなかった。


「……ぼくが、殺したんだ」


 涙はいつの間にか、枯れ果てていた。




 王付きのメイドになりたいといつか頭を下げてくれたセルシュの任を解いた。クライノートには新しい部屋を離れに用意し、追い出した。そして、リゼルは黒い手袋をするようになった。また、失うくらいなら、会わない方がきっといい。


 黄昏の獣デルニエを多く討伐してきた英雄を殺した王として、英雄が捧げた忠誠すらも裏切った王として、リゼルは恐れられている。誰もがリゼルから一定距離を取ろうとするので、いつもリゼルの歩く道はがらんとしていた。少し前は、蝕崖を払い去ったと喜んで讃えていたというのに、人の心はこうも容易く揺らぐのだ。しかし、どんなに恐ろしい王だとしても蝕崖を押し戻すことができるのはこの世にただ一人だった。そうして、民はただひたすらに少年王にこいねがう。


 ひとつ願いを叶えるたびに、リゼルの中で何かが壊れていく。


 ……それでも。




「っ……」


 自室に帰ると、指先一本まともに動かせない。寝台にもたどり着けずに、最近は床で寝ていることの方が多いくらいだ。部屋の外に置かせた食事を這うようにして自室に持ち込む。冷めきったパンとスープにローストビーフ。空腹感はあっても食事を受け付けようとしない胃に無理矢理それらを流し込んだ。味なんて、しなかった。


 床で目を閉じて横になっていると、部屋の扉が閉まる音で目が覚めた。痛みに耐えながら、リゼルは立ち上がる。


「クライ……。何度言ったら分かるんだ。ここに来ちゃいけないって、言ったじゃないか」


 片翼の天のみ使いが窓際で月を見上げていた。真っ白な彼女は一身に月の白銀の光を受けて淡く輝いている。寂しそうな金剛石の瞳がリゼルを映した。クライノートは真っすぐリゼルに向かって歩いてくる。その姿があの日のベルデモントの姿と重なった。


「来るなっ! ぼくに近づくな!」


 花瓶が割れ、鋭い蒼玉の結晶が刃としてクライノートに牙を剥く。頬すれすれを切っ先がかすめてもクライノートは足を止めない。テーブルは黒い蛋白石となって剣の山のように変化する。錬成の途中で散った鋭い石の欠片を踏みつけ、足から血がしたたるのもお構いなしにクライノートはリゼルの方に近づいてくる。


「ぼくから離れろ、クライノート」


 クライノートの瞳に微かに怯えが混じる。リゼルが今までクライノートと呼んだことはなかった。たとえ、彼女を傷つけようとも構わない。決してクライノートがリゼルのもとに辿り着くことのないように、リゼルは錬成を止めなかった。壁から生えた紫水晶がクライノートの喉を浅く裂いて朱色の線を引く。お願いだから足を止めてくれ、と願った。しかし、クライノートはもう手を伸ばさなくても触れられる距離で。


「クライ、だめなんだ。ぼくは、もうきみには触れられない。ぼくが触れたら、クライも壊れちゃう。……ぼくはクライを、殺したくない」


『くらいは、へいきだよ』


 口をゆっくりとそう動かして、クライノートは震えるリゼルの手をそっと握った。黒い手袋に指先を入れて、外してみせる。布越しでなくともクライノートは崩れたりしなかった。クライノートは微笑んだ。彼女の目線はリゼルと同じ場所にあった。


「クライ、ほんとうに、大丈夫なの?」


 膝から力が抜け、座り込んでしまう。クライノートがへたり込むリゼルの背中を支えた。


『うん』


 クライノートがしてくれたようにリゼルは笑おうとしてみる。けれど、痛みを押し殺すことに慣れすぎた顔はぴくりとも動かない。泣きたいくらい嬉しかったけれど、涙も一滴も出なかった。


「え、ちょっと、何を──」


 突然、クライノートはリゼルの着ているブラウスのボタンを外し始めた。リゼルの顔から血の気が引ける。慌てて抵抗しようとするも、力の入らない状態ではクライノートにさえ勝てなかった。


『やっぱり──』


 リゼルはクライノートの目線から逃げる。痛いのはまるでクライノートの方だと錯覚してしまいそうなほど、彼女は悲痛に顔を歪めた。……そう、リゼルの身体は半ばから黒い結晶に変わっていたのだ。


 今まで、リゼルは蝕崖を消していたわけではない。蝕崖を消す方法などどこにもなかった。だから。


“リゼルは蝕崖をここに移してたんだね……”


 クライノートに返す言葉をリゼルは見つけることができなかった。真っすぐな瞳から隠すようにブラウスのボタンを留め直す。ひたすらクライノートから目を逸らし続けるリゼルの顔にクライノートは殴り書きを突き付けた。


“もう、やめて。このままだとリゼルが死んじゃう”


「大丈夫だよ。ぼくにはクライがいるから」


 ちがうのだと、言うことはクライノートにはできなかった。笑うことも泣くことも忘れてしまったのに、リゼルは自分が壊れていることに気付いていない。


 それが、とても悲しかった。


“リゼル、ずっと側にいて”


 震えた手で書いた文字に涙が落ちて、インクが滲む。リゼルはクライノートの肩に頭を預けて、頷いた。


「いるよ、ずっと」


 まだリゼルが明日を望めるのは、クライノートがいるからだ。

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