第12話 「ごめん、クライ……」
「民を守るために働いてくれるか?」
いつか王がかけた言葉を思い出し、エヴァンギル・リッターは胸に手を当てた。“狩人”が解体された後に作られた守護騎士団の長として、エヴァンギルは剣を振るう。それだけで良かった。
──だが。
父親であり、尊敬すべき騎士としてエヴァンギルの憧れであったベルデモントが死んだ。忠誠を捧げた王、自らの手によって
橙色の髪の下で翠色の双眸がゆらりと揺れる。
この国はこれでいいのだろうか。王は罪を問われず、玉座に座り続けている。ベルデモントの死後、七卿になったエヴァンギルを含め、七卿は王に意見することなく
それで、いいのか、本当に。
エヴァンギルはこつこつと床を鳴らし、王のいる玉座の間へと足を進める。藍のカーペットの先、銀の玉座に腰掛ける王はいつからか白い仮面で顔を隠すようになった。その王の隣に立つ天のみ使いは唇を引き結び、仮面の少年王からエヴァンギルへと憂いに満ちた視線を移す。
「陛下、本日の被害報告をお持ちしました」
「……そうか」
エヴァンギルが読み上げる状況に王の身体は揺らぎもしない。毎日万単位で人が死んでいるというのに。まるで関心がないというばかりの様子に耐えきれず、エヴァンギルはもう一歩踏み込んだ。拳を握りしめ、届くようにと願いながら叫ぶ。
「陛下っ! 蝕崖を消し去る奇跡はもう起こせないのですか!? できるのでしたら、民をどうか救ってください! もう毎日蝕崖に呑まれる民と大地を見ていられないのです!」
「余は……」
少年王の声がかすれる。仮面の下の顔は見えない。クライノートの手が王の肩に添えられた。王は激しく燃えるエヴァンギルの翠の瞳から目を逸らさなかった。
しかし。
「……そうだな。努力しよう」
「っ!」
努力、その言葉にエヴァンギルは唇を強く噛んだ。何度聞いたことだろう、そしてそのたびに何も変わらなかった。だからきっと今回も同じだ。
「陛下は、民をお救いになる気がないのですね」
失望しました、と言い残して、早足で玉座の間を出て歩いていく。行き先などどうでもよかった。
「どうなさったのですか?」
背中から掛けられた声にエヴァンギルは足を止める。振り返ると、そこには金髪の司祭が立っていた。
「セレスティアン様……」
微笑むセレスティアンにエヴァンギルは思わずこぼす。何も変えることのない王のことを。民を救おうとしない王のことを。
「ええ、陛下には何も変えられません。もう、限界でしょう」
とろける蜜のような声でセレスティアンは言う。
「あなたが変えますか? 陛下の代わりに」
エヴァンギルの喉がごくりと鳴る。澄んだ蒼い瞳の奥、この男が何を考えているのかエヴァンギルには分からなかった。けれど、その誘いだけはとてもとても甘く、そしてただしく見えて。
***
「クライ……」
部屋に倒れ込むリゼルの身体をクライノートは抱きとめた。リゼルは絞り出すような呼吸の中で、こんと咳をした。仮面の下の顔は黒水晶に変わりかけている。
蝕崖を身体に移し続けた身体はもうほとんど黒水晶に覆われていた。仮面と手袋なしには玉座にさえ座れない。そして、今この瞬間も黒水晶はリゼルを侵食していた。奇跡とやらを起こしていないわけではないのだ。もう、蝕崖の進行速度がリゼルの処理できる速度を超えてしまっただけ。
日に日に死んでいく身体と心。クライノートにできるのはただ壊れていくリゼルを見ていることだけだった。
“リゼル、リゼル。今日の夜は星を見よう。もうずっと、見てないでしょ?”
「ほし、かあ。うん、とってもいいね」
そう言ってはみたものの、なぜ星を見ることがよいことなのか、リゼルにはもう分からなかった。どんどん色々な思いと感情が消えて、空っぽになっていくのが怖かった。いや、もうこわくもない。まだ残っているのは、クライノートがとてもたいせつで、一緒にいるという約束を守らなければという決意だけだ。けれど、いつか、必ずクライノートへの感情もなくなる日が来る。それは、それは、それはとても……なんだったっけ。
わからない。
クライノートがバルコニーに運んできた椅子に言われるままに腰を下ろした。澄んだ空気が黒水晶に変わった身体を撫でていく。黒い空は、いつの間にか簡単に端を見渡せるほどに狭くなっていた。どれだけ狭くとも、それでも、天蓋に縫い留められた星は煌々と光り続けている。
“きれいだね、リゼル”
黄金燈の明かりの下で書いた文字をクライノートはリゼルに見せる。
「えっと、そうだね」
分からないなりに返事をすると、クライノートは文字の書かれた紙をぐしゃぐしゃにして捨ててしまった。ぽろぽろと零れ落ちる涙を必死に拭って、リゼルから隠そうとしている。戸惑いながらリゼルは黒水晶に変わってしまった冷たい手を伸ばした。
「ごめん。泣かせるつもりじゃなかったんだ。上手く答えられなくて、ごめん」
クライノートはリゼルの手を胸に抱いて首をぶんぶん横に振る。
『リゼルのせいじゃない』
リゼルの隣にクライノートが座り、ペンを握って手を一生懸命動かしている。ふたりきりで空を見上げて、言葉を交わして、まるで最初に会った日みたいだ。あの日泣いていたのはリゼルの方だったけれど。この世界の中でたったひとつのものをお互いに見つけた日、リゼルの世界は色づいた。たとえ、冷たく寂しい玉座で誰にも理解されなくても、クライノートさえいてくれれば他には何もいらなかった。
だからリゼルは間違えたのだろうか。
結局リゼルにできたのは終わりの時を遅らせることだけだった。その間にたくさん失って、リゼルの手は血に汚れた。
そんな
“わたしはね、はじめてリゼルに会ったとき、わたしを創った王さまが帰ってきたんだと思ったの。王さまはわたしを創ったのに、生まれたばかりのわたしじゃなくて、違う誰かを見ようとしてた。だから、できそこないのわたしに絶望してた。そんな王さまが、わたしをやっと見てくれて、名前をくれたと思ったの。でも、違った。リゼルは最初から、わたしを見てくれた。わたしの願いを叶えてくれた。ほんとうは、リゼルの方が苦しかったのに。ねえ、リゼル。ずっとずっと言いたかった”
──ありがとう、って。
けれど、もう、その言葉がリゼルの心を震わせることはない。伝えるには、遅すぎた。リゼルは紙を見つめ、返す言葉を見つけられずに沈黙する。きしきし、と水晶に変わってしまった身体の奥が軋む音がした。そんなリゼルをそっと抱きしめたクライノートの体温はリゼルには熱かった。
それでも、まだ大丈夫。まだ、おぼえている。ぼくはだいじょうぶ。
「
そうして、夜が更けて朝が来る。クライノートに支えられて、銀の玉座へ。民を守るためにリゼルは歩く。それが、いつか誓ったリゼルのただしさ。
いつものように報告を聞き、対処を図る指示を出す。しかし、入れ違いにやって来る人々の様子は普段と違っていた。ざわざわと落ち着きのないまま、やがて七卿が玉座の間に兵を引き連れて入ってくる。
「陛下と天のみ使い様を取り押さえろっ!」
エヴァンギルの指示に兵は迅速に従った。抵抗する力のないリゼルはいとも容易く玉座から引きずり降ろされる。王冠もマントもなくてよかった、と場違いにもそう思った。クライノートはバタバタと手足を動かし、兵の手に嚙みついて、リゼルの元へ走り出す。が、髪を掴まれて両腕を押さえつけられてしまえば、もう動くことはできなかった。
『リゼル! リゼル!』
声のない彼女には空気さえ震わせられない。口を何度も必死に動かして、けれど引きずり倒されたリゼルはクライノートの方を見られない。
「陛下、なぜ俺たちがこのような行動に出たのかお分かりですか?」
カーペットに膝をついたリゼルは顔を上げ、首を振る。カッとなったエヴァンギルの手がリゼルの仮面を弾き飛ばした。白い仮面はからからと音を立てて大理石の上を転がっていく。リゼルの顔を見た人々は息を呑んだ。錬金の王の似姿と呼ばれた顔は黒水晶に半分変わって、灰銀の目には光も差していない。エヴァンギルの動揺をリゼルはその翠の瞳の向こうに見た。激情が動揺を押し流していく様も。
「……民を救おうとしないあなたに俺たちはもう耐えられません」
橙色の髪の青年は黙り込んだままのリゼルを突き刺すように見下ろす。
「あなたの国に未来はない」
エヴァンギルは吐き捨てた。リゼルはふっと眉を下げて自嘲の笑みを微かに浮かべる。
「……そうか、未来、か」
お覚悟を、とエヴァンギルは剣を抜き放つ。
クライノートが泣いていた。視界の端で、片翼の天のみ使いは声のない叫び声を上げている。リゼル、リゼル、リゼルと喉が壊れそうなほど叫ぶ声がリゼルにだけは届いていた。たとえ音として聞こえていなくても、クライノートの言葉はちゃんとわかっている。リゼルという名をさいごまで呼んでくれたのは、クライノートだけだった。
「ごめん、クライ……」
剣が閃く。
……ぼくはもう、クライのそばにはいてあげられない。
てん、と少年王の首が落ちた。
クライノートが金剛石の瞳を大きく見開いた。クライノートを押さえていた二人の兵士が黒い水晶になって砕け散る。クライノートは己が何をしたのかさえも理解せずに夢中でリゼルの身体に手を伸ばした。
リゼルの身体を覆っていた黒い水晶が音を立てて剥がれ落ちていく。砕けて、散りながらきらきらと舞って消えていく。噴き出した鮮血が藍色のカーペットを濡らしていった。リゼルの頭と身体を抱きしめたクライノートの身体も紅に染まっている。
からん、と音を立てて落ちたのは、黄金の
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